乙未戦争 ~日清戦争の延長戦?~

●開戦までの背景

1895年(明治28年)下関条約によって日清戦争は日本の勝利で幕を閉じた。下関講和会議にて、。遼東半島に関しては三国干渉によって手放すこととなったものの、日本は台湾の割譲朝鮮半島の独立賠償金2億両(当時の価値で約3億円)を清国に認めさせた。

しかし、台湾割譲に反対する一部の清国武官は、列強の干渉を呼び込むためにイギリスやフランスに台湾を貸与する計画などの割譲阻止工作を実行した。また5月25日には「台湾民主国」の建国を宣言した。だが、三国干渉の結果に満足した欧米列強は「台湾民主国」の建国を認めなかった。

 下関講和会議

日本政府は台湾における武装蜂起の報を受けると、第2軍の隷下に入っていた陸軍中将北白川宮能久親王を師団長とする近衛師団を台湾に派遣。近衛師団は5月27日に沖縄県において樺山資紀一行と合流し、5月29日に清国との授受式を待たずに清国の残党兵を掃討するために三貂角(サンチャオ)に上陸。6月6日、清国との授受式を行い、更に6月17日、無血開城した台北において台湾総督府始政式を挙行。それ以降は台湾に潜む清国残党兵と台湾割譲反対派の地元の民兵に対する掃討戦に向かっていくのである。

 北白川能久親王  樺山資紀

●開戦から平定まで

斯くして戦いの幕は切って落とされたのだが、抵抗する清国残党兵と台湾割譲反対派の一部地元民兵は、基本「ゲリラ戦」で応戦した。「ゲリラ戦」はあらゆる戦法の中で非常に厄介な戦い方である。何せ基本の部隊編成は「タスク編成」であり、少人数でしかも地元民の協力などで様々な「仕掛け」をして、消耗戦や神経戦を強いて占領の長期継続を困難にさせる事を目的としているからだ。その反面、ゲリラ戦だけでは短期間に決定的な軍事的損害を与える事は困難で、長期の継続力が必要となる。

当初、樺山台湾総督はこの戦いは近衛師団だけで台湾を平定出来ると思い込んでいた。しかし、ゲリラ戦の影響で各支隊の間で連絡が行き届かなくなり、戦いは困難を極めた。また、想定外だったのが地元民兵の抵抗が予想以上に苛烈だったことだ。加えてゲリラ戦のために兵士と民衆の区別がつかずに、村まるごと殺戮するといった強硬手段に出た。それが更に反発を呼び、抗戦を長引かせた。

 乙未戦争

結局、日本軍は増派に次ぐ増派で2個師団以上の兵力約76000人を投じて死傷者5320名の損害で台湾を平定した。ちなみに死傷者5320名のうち、病死者が4642名と約8割程が赤痢・マラリア・脚気などで死んでいった。近衛師団を指揮した北白川宮能久親王もこの地で病没した。皇族の外地での死亡は彼が初めてであった。

 

●「乙未戦争」は「日清戦争の延長戦?」

第二次世界大戦終了まで日本政府側や台湾総督府の資料の重要部分が未公開だったために、戦前の研究は乏しい。しかし戦後、そのような資料や、中国や台湾側の要人の回想録や日記、国民党政府が管轄していた資料、当時台湾に在留していた外国人の記録などが公開され、また共同シンポジウムが開かれるなど研究が進んでいる。

そして、ここで考えるべきは乙未戦争は「日清戦争の延長戦」か「日本vs台湾民主国」の戦争かで意見が別れているそうだ。日本政府は「乙未戦争は日清戦争の一部」である、発表している。

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