レキシントン級空母―アメリカ海軍の先見性

 第二次世界大戦で活躍したレキシントン級空母は、アメリカ海軍初の大型正規空母として完成しました。よく知られている話ですが、もとは巡洋戦艦として建造されていた船体を空母に改造した艦です。
 同形艦としてレキシントンとサラトガが就航し、ともに太平洋戦線で日本海軍と激しい戦いを繰り広げました。
 この記事では、レキシントン級空母の軌跡を追いながら、アメリカ海軍に与えた影響を考察します。

ワシントン海軍軍縮条約と空母への改装

 第一次世界大戦が終わり新しい世界秩序が始まってなお、戦勝国は海軍力の増強に努め建艦競争の様相を呈していました。その当時の海軍の主役は、大口径の主砲を搭載した戦艦や巡洋戦艦で、各国はそのような艦船の建造計画を進めていました。
 アメリカ海軍においても同様で、第一次世界大戦中に策定されたダニエルズ・プランが進行中だったのですが、その中にレキシントン級巡洋戦艦が含まれていました。

レキシントン級巡洋戦艦

 ダニエルズ・プランは、1924年までに52隻の戦艦を中心とした艦隊を整備するという極めて野心的なものでした。戦艦の中にはアメリカ海軍としては珍しい巡洋戦艦6隻が計画されており、それがレキシントン級巡洋戦艦で、重武装だが軽装甲でなにより速力を重視したものです。
 設計案の変更が重なったため2番艦コンステレーション、3番艦サラトガが先に起工され、レキシントンが起工されたのは1921年1月となりました。レキシントン級巡洋戦艦の大きな特徴は、戦艦ニューメキシコでも採用された「ターボ・エレクトリック方式」の推進方式です。
 これはタービンエンジンを発電用として使用し、その電力で電動機とスクリューを直結して回転させるもので、後に空母に転用されたレキシントン、サラトガは約34ノットの高速を誇りました。

ワシントン海軍軍縮条約と空母への転用

 第一次世界大戦後に戦勝国間で競われていた建艦競争は、各国の財政を著しく圧迫するものでした。そのため提起されたのが歴史上初めてとなる軍縮会議で、1921年11月から1922年2月までアメリカのワシントンで開催されました。
 そこで締結されたのがワシントン海軍軍縮条約です。この条約が採択されたことでダニエルズ・プランは中止となり、建造中だったレキシントン級巡洋戦艦も廃艦されることになったのですが、条約で一部戦艦等から空母への改装が認められたことからレキシントンとサラトガが空母へ転用されることになりました。
 同じような経緯で日本海軍では天城(関東大震災の影響で加賀へ変更)と赤城が空母へ改装されることになり、日米で将来性がいまだ分からなかった空母への試行錯誤が始まることになったのです。

ほぼ空母の完成系となったレキシントン級空母

 巡洋戦艦から空母へ改装され、サラトガが1927年11月、レキシントンが1927年12月に就役しました。全通式1段の飛行甲板をもつその姿は、今の目で見てもほぼ空母の完成形といえる姿です。
 当時の艦載機は複葉機だったため、例えば日本海軍の赤城や加賀は3段式の飛行甲板を採用するなど、空母過渡期の時代だったなかレキシントン級空母の先見性は目立ちます。
 飛行甲板は全長264m、最大幅約32mと広大で、後に主力空母となるエセックス級とほぼ同じサイズでした。格納庫はアメリカ最初の空母ラングラーの開放式とは違い、密閉式格納庫が採用されたのですが、これ以降のアメリカ空母は開放式格納庫へ戻されます。
 これはラングラーやレキシントン級空母の運用によって、開放式格納庫のほうが換気に優れ艦載機の整備性が良かったためです。日本海軍の空母が密閉式格納庫を採用したのは、艦載機への塩害を防ぐためでしたが、艦載機を大量生産できるアメリカとの思想の違いを感じさせます。
 ただ密閉式格納庫を試験採用されたレキシントン級空母は、後にその欠点をさらけ出してしまいました。

レキシントン級空母の戦歴と与えた影響

 1927年に就役したレキシントンとサラトガは、当時のアメリカ海軍最大の軍艦であり、その優雅な姿からレキシントンは「レディ・レックス」、サラトガは「サラ」と姉妹の愛称で呼ばれ高い人気を誇りました。
 就役から様々な訓練や実験が重ねられ、その結果がヨークタウン級やエセックス級へフィードバックされます。そして1941年12月8日の真珠湾奇襲から、レキシントンとサラトガも対日戦に投入されることになります。

レキシントンと珊瑚海海戦

 太平洋戦争が始まったときレキシントンは、ミッドウェー島へ海兵隊航空機を輸送する任務に就いていました。真珠湾奇襲のため任務を中止したレキシントンは、第12任務部隊と合流して日本機動部隊の探索を行ったが遭遇することなく、12月13日にハワイ真珠湾へ帰投します。
 その後はニューギニア方面に進出する日本軍への対応が中心となり、1942年5月に史上初めての空母同士の海戦となった「珊瑚海海戦」に空母ヨークタウンとともに参加することになりました。
 5月7日にレキシントン及びヨークタウンの攻撃隊が日本の空母祥鳳を撃沈する戦果をあげ、5月8日には翔鶴を大破炎上させるなど活躍します。しかし翔鶴と瑞鶴の航空隊による反撃を受けたレキシントンは、魚雷2本と爆弾2発が命中し、ヨークタウンも爆弾1発を食らいました。
 この時の衝撃で航空用燃料の露出が始まっていたレキシントンは、密閉式格納庫が仇となり船内に揮発したガソリンが充満していたのです。見た目には致命的ダメージのなかったのですが、1942年5月8日12時47分に気化ガソリンの大爆発が発生し、手が付けられなくなったことで自沈させることになりました。

大戦を生き残ったサラトガ

 サラトガは太平洋戦争が始まって最初に被害を受けた空母になりました。1942年1月12日、ハワイを出港したサラトガは日本軍の潜水艦伊6号の雷撃を受け、沈没は免れたものの修理と航空隊の補充が間に合わず、8月23日の第二次ソロモン海戦でようやく戦線復帰します。
 しかしまたしても伊26号の雷撃を受け行動不能に陥ってしまいました。11月10日になり修理を終えたサラトガは、アメリカ空母の被害が大きくなった1943年の一時期は、太平洋戦線で活動できる唯一の空母となり、苦しい時期のアメリカ海軍を支えたのです。
 同時期にエセックス級空母が大量に就役するようになるとサラトガの運用にも余裕がうまれ、1944年6月から1945年1月までは整備や艦載機の訓練を行っています。しかし2月になると硫黄島攻略作戦に従事するため前線に復帰し、そこで神風特攻隊の攻撃を受け再び損傷しました。
 修理を終え1945年真珠湾へ戻り、再び訓練が開始されましたが8月15日に日本が降伏し終戦を迎えました。1946年7月に行われたビキニ環礁の核実験でサラトガは標的艦として使用され、同じく標的艦にされた日本海軍の戦艦長門らとともに海底に眠っています。

レキシントン級空母の運用で得られた教訓

 レキシントン級空母は、アメリカ海軍では初の本格的大型空母であるため色々な試みが見られます。現代空母では普通になった艦首から飛行甲板まで装甲で覆うエンクローズド・バウもその一つでしたが、密閉式格納庫になったうえ飛行甲板の装甲も薄かったため、レキシントンのような惨事を招いてしまいました。
 また航空燃料の保管場所などの多くの反省点が、後のエセックス級空母に生かされていることからも、レキシントン級空母が与えた影響は小さくなかったといえるでしょう。

まとめ

 第二次世界大戦の太平洋戦線では、アメリカ海軍と日本海軍の戦いの中心は空母となりました。戦時中のアメリカ海軍で唯一の密閉式格納庫だったレキシントン級空母は、ダメージコントロールの点で問題があり、それをフィードバックできたことは見過ごせない貢献といえます。
 レキシントンは自沈し、サラトガが原爆実験で沈むという最後でしたが、空母創成期に果たした役割は決して色あせるものではありません。


主要参考資料
・「アメリカの空母 対日戦を勝利に導いた艦隊航空兵力のプラットフォーム」 ・・・歴史群像編集部編
・「帝国海軍はなぜ敗れたか」 ・・・ 御田俊一

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