クレタ島の戦い―ドイツ空挺部隊の墓場

 クレタ島の戦いは、第二次世界大戦中の戦いの一つです。クレタ島は地中海の島ですが、戦略的に重要だったために英独軍の攻防戦の部隊となりました。今回は、クレタ島攻防戦がどのような戦いだったのかを紹介します。

クレタ島を巡る情勢

 クレタ島は地中海東部の要衝でした。1940年10月28日にイタリアがギリシャ本土に侵攻すると、翌日にはイギリス軍はクレタ島へ進駐しました。イギリスにとって地中海はアジアの自治領、植民地からイギリスへ戦略物資や人員を輸送する上で重要な海域でした。ここが脅威に晒されると、イギリスの継戦能力に打撃となります。そこでクレタ島を早めに抑えたという訳です。
 イタリア軍は攻撃を仕掛けてきますが、ギリシャ軍に撃退されます。しかし、1941年4月になると、ドイツが介入してきたため、形成が逆転しました。ドイツ軍はギリシャ本土を制圧し、ギリシャを守備していた連合軍部隊は4月28日に降伏し、ギリシャ政府とギリシャ王室は、クレタに逃れます。
 こうした中でクレタ島の戦略的位置づけについての議論が生まれます。中東戦域司令官のウェーベル大将は、メソポタミアやリビアなど、中東・アフリカ地域における枢軸国との戦いは多方面に及んでおり、クレタ島に戦略的な価値はないため、放棄すべきとします。一方、首相のウィンストン・チャーチルはクレタ島の戦略的価値から放棄に反対します。 ドイツにとって、クレタ島は重要でした。クレタ島を奪うことが出来れば、クレタ島を海軍基地として活用することが出来ます。クレタ島の飛行場は、イギリス海軍の根拠地であるアレクサンドリアやスエズ運河が攻撃可能圏内に入ります。他方、東欧側ではドイツが石油資源を頼っていたルーマニアのプロイェシュティ油田が爆撃可能範囲にあり、連合国側にあると石油供給が断たれる恐れがあります。
  

クレタ島侵攻作戦

 こうした中で立案されたのがクレタ島侵攻作戦です。クレタ島進攻作戦は、航空機を使っての作戦となりました。当時は、イギリス海軍が周辺の制海権を、ドイツ空軍が周辺の制空権を握っている状況だったためです。
 空軍による侵攻作戦ということで、空挺部隊を使った大規模な空挺作戦となりました。総司令官は第4航空艦隊のアレクサンダー・レーア上級大将が任ぜられました。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン大将指揮の第8航空軍団が制空権確保と対地攻撃を担当します。クルト・シュトゥデント大将率いる第11航空軍団が空挺部隊を統括します。
 攻撃計画では、攻略部隊を3つに分けます。空挺部隊でクレタ島のマレメ、イラクリオン、レティムノンの各飛行場を占領します。その後、飛行場への空輸と輸送船を使った海路での輸送を行い、増援部隊を送るというものでした。輸送船による海路の輸送も必要だったため、ドイツ軍は、イタリア海軍に主力艦艇を使った上陸作戦の支援を依頼します。しかし、イタリア海軍はマタパン岬沖海戦で敗北したばかりであり、補助艦艇による協力を約束するのみでした。 当時はソ連侵攻作戦のバルバロッサ作戦が計画中であり、クレタ島侵攻作戦はバルバロッサ作戦に影響を与えないことが条件となりました。承認を受けた後、作戦開始は5月16日とされました。しかし、輸送機整備や燃料輸送などの問題から作戦は延期され、5月20日となります。作戦に合わせて、約500機のJu 52輸送機、約100機のDFS 230奇襲用グライダーがアテネ周辺に集結しました。制空と対地攻撃を担当する第8航空軍団では、水平爆撃機のJu 88が280機、急降下爆撃機のJu 87が150機、その他、Bf109、Bf110といった戦闘機が合計180機、偵察機40機が集結します。航空部隊はギリシャ本土やエーゲ海各地の飛行場に展開しました。

作戦の結果

 ドイツ軍の予想に反して、クレタ島には2万7500人の英連邦軍と1万4000人のギリシア軍が防備を固めていました。ここにドイツの空挺部隊が2万5000人が空挺降下します。降下に先立って爆撃が行われ、対空砲はほとんど破壊されましたが、ドイツの降下部隊は大打撃を受けました。当時は強風が吹いており、降下部隊は守備隊の陣地を覆うように降下することになり、砲火に晒されてしまいます。また投下した重火器の回収も出来ず、被害が拡大します。当初の作戦目標だった3つの飛行場の制圧に手間取りましたが、ようやくマレメ飛行場の制圧に成功します。
 一方、海路からの侵攻作戦も苦戦を強いられます。ドイツ空軍の援護を受け、イギリス海軍の艦艇を攻撃しますが、輸送部隊はイギリス艦隊の攻撃を受けます。船団50隻のうち、11~12隻を喪失しました。クレタに無事上陸できたのは74人でした。
 ドイツ空軍はマレメの飛行場へと増援部隊を送っていきます。そして、マレメの制圧が完了すると、イギリス海軍に対する攻撃に集中しました。ドイツ空軍の絶え間ない攻撃によって、イギリス海軍には損害が増えていきます。
 空襲で重巡洋艦1隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦6隻が沈没し、空母1隻、戦艦3隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦が多数損傷を受けます。損害に耐えかね、イギリス軍は地中海艦隊にクレタ周辺の警戒を中止させました。イギリス軍は撤退を開始し、1万5000人が撤退を行いました。最終的にドイツ軍はクレタ島全域を占領し、6月1日にクレタ政府は降伏しました。
 ドイツ軍のクレタ島侵攻作戦で連合軍は艦艇に甚大な被害を受けました。一方でドイツ軍も降下部隊に大きな損害を受けます。空挺部隊だけでなく、輸送機にも大損害を受けました。この損害をうけ、ドイツ軍は大規模な空挺作戦を以後は実施することはありませんでした。


主要参考資料
・デヴィッド・ホーナー「イギリスとギリシア及びクレタ島をめぐる戦い1941年」防衛省防衛研究所編『島嶼問題をめぐる外交と戦いの歴史的考察』防衛省防衛研究所、2014年。
・三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ文庫、1993年6月。

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