タイ-フランス領インドシナ紛争―太平洋戦争前夜の戦い

 第二次世界大戦がアジアに広がる前にタイとフランス領インドシナの間で国境紛争が発生していました。タイ・フランス領インドシナ紛争です。今回は太平洋戦争勃発前に起ったこの戦争を紹介します。

不安定化するタイ・フランス領インドシナ国境

Provinces of Cambodia loss to Thailand during Franco-Thai War.png、Thanyakij、(CC BY-SA 3.0)

 タイとフランス領インドシナは国境を接していましたが、国際情勢の変化によって、関係が変化していました。1940年6月、フランスとタイ王国は不可侵条約を締結しました。元々、国境を接している両国ですが、フランスが不可侵条約締結を望みます。欧州情勢が緊迫化しており、1939年9月にはドイツのポーランド侵攻によって、第二次世界大戦がはじまります。フランスはフランス領インドシナの安全を図るため、タイの介入を防ごうとしていました。
 タイとフランス領インドシナ間には国境紛争が存在していました。1893年の仏泰戦争でタイがフランスに割譲していました。欧州情勢が緊迫化する中で、タイはメコン川西岸までのフランス保護領ラオスの領土と主権やフランス保護領カンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州の返還を求めます。
 フランスがドイツに占領された後成立したヴィシー政権に対しても、当時タイの首相だったピブーンは返還要求を行います。タイとしては、この機会に失われた領土を取り返したいという思惑がありました。
 しかも、タイに残された時間は多くありません。インドシナには日本が進駐していたためです。日本は戦争中だった中華民国への援助ルートを遮断するため、ドイツによってフランスが占領され、ヴィシー政権が成立したことで、フランス領インドシナの北部に進駐を行いました。このまま日本がインドシナ南部にも進駐してくると領土返還要求が難しくなってしまいます。そのため、タイ政府は強硬な姿勢を貫き、1940年9月頃から国境では小競り合いが頻発するようになりました。

紛争の開戦

 両国は外交交渉を重ねていましたが、1940年11月23日タイ空軍がフランス領インドシナ領内を爆撃しました。これで戦争が開始されます。タイはB-10爆撃機6機を使って、爆撃を行い、フランス領インドシナ軍の基地施設を破壊し、フランス領インドシナ軍の航空機を破壊しました。
 一方、フランス側も反撃を行い、タイ空軍の爆撃機を撃墜しています。加えて、タイ領内に夜間爆撃を行い、タイ空軍の航空機に損害を与えることに成功しました。
 空軍に呼応して、陸軍も攻撃を行う手はずでしたが、タイ陸軍の動きは遅かったようです。1940年11月23日に現在のカンボジア領に侵入して、フランス領インドシナ軍と交戦しました。しかし、翌日にはタイ領内に撤退してしまいます。年が明けた1941年1月6日にタイ軍は現在はラオスのルアンプラバン地方・カンボジアのバッタンバン地方に20個大隊で侵攻しました。
 防衛側のフランス領インドシナ軍は10個大隊しかおらず、重火器が不足している状況でした。そのため、タイ軍に圧倒され、多くの死者、行方不明者を出して撤退します。
 フランス領インドシナ軍は、ベトナム兵の戦時動員を行いました。加えて、タイ軍を領内の奥深くまで誘い込み、反攻するという作戦に出ます。1月16日カンボジアのバッタンバンでフランス領インドシナ軍は反撃を開始します。タイ軍は一時、押し返すことに成功しますが、救援に来たフランスの外人部隊によって、戦車部隊が撃破され、タイ軍の攻勢は停滞してしまいました。
 フランス領インドシナ軍はタイ軍を一時的に押し戻すことに成功しましたが、タイ軍の方が物量に勝っており、フランス軍にさらなる攻撃を加えます。本国フランスが占領下に置かれており、増援もままならないフランスは防戦一方でした。
 1941年1月にはシャム湾で、タイ海軍とフランス海軍の海戦が行われます。この海戦では、フランス海軍側が規模で優っており、タイ海軍の旗艦トンブリ級海防戦艦「トンブリ」を撃沈するなど、フランスが勝利を収めました。

終戦

バンコクの戦勝記念塔

 フランスは本国から支援を受けられないにもかかわらず、戦いを続けていました。タイ側は決着をつけようとしますが、フランスの優位を崩せません。こうした中で日本が調停に乗り出します。日本にとっては、タイはアジアにおける数少ない友好国であり、ドイツ占領下という状況であれ、ヴィシー政権も日本にとっては友好国です。友好国同士の紛争を憂慮し、和平調停へと乗り出しました。
 和平調停は難航しますが、最終的には日本の圧力もあり、東京条約が結ばれます。条約ではタイが、メコン川右岸のルアンパバーン対岸とチャンパサク地方、カンボジア北西部のバッタンバン・シエムリアプ両州をフランスから割譲されることになりました。一方、シエムリアプの町とアンコールワット周辺の遺跡群は対象外とされました。
 戦況はフランス側が有利でしたが、タイの要求をほぼ受け入れる内容となりました。タイではこの結果を受け、戦勝記念塔がバンコクに建立されました。
 第二次世界大戦に日本が参戦すると、タイも日本の同盟国として英米に宣戦を布告しますが、1945年8月16日に宣戦の無効を宣言し、敗戦国となるのは免れました。しかし、タイの国連加盟を巡って、フランスは拒否権行使の構えを見せたため、タイは領土を引き渡しました。結局、割譲を受けた土地はその後独立したカンボジア王国とラオス王国の領土となりました。戦争の結果受け取った領土は返還せざるを得なかった訳です。


参考資料
柿崎一郎『物語 タイの歴史』中央公論新社、2007年。
立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ 「日仏協力」の研究』彩流社、2000年。

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