B-25―日本を初空襲した爆撃機

 B-25は第二次世界大戦中に活躍したアメリカの爆撃機です。日本を初空襲したドーリットル空襲に使われたことでも知られています。ここではB-25がどのような爆撃機だったのかを紹介します。

B-25とはどういう爆撃機?

 B-25の開発は1938年より開始されました。1939年1月29日に初飛行に成功します。レシプロエンジンを2基装備し、尾翼は双垂直尾翼を搭載していました。B-25の特徴としては、機体サイズの割には兵器の搭載量が大きいというのがあります。この高い兵器搭載量を活かしたモデルも製造されます。B-25G、B-25Hという型式は75mm砲を搭載し、12.7m機関銃を14機搭載しています。地上攻撃機に特化したタイプです。
 爆撃機は爆弾を搭載し、敵に攻撃を加えます。当然のことですが、爆弾を落としてしまえば、一度基地まで戻らないと再度の爆撃が出来ません。これはロケット弾でも同じことです。B-25が取った手段は重機関銃を多く搭載するというものでした。B-25は多くの重機関銃を搭載し、爆撃が終わった後でも、機銃掃射を加えることが出来ます。既存のB-25C、D型に対して、12.7mm重機関銃を8基増設しました。12.7mm機関銃は毎分550発の発射が可能です。これを8基搭載しているので、単純計算で4400発の発射が可能になります。

重武装の爆撃機

 B-25が脅威だったのは、機関銃のおかげでもあります。B-25が搭載していたブローニングM2重機関銃は、現在でもつかわれており、アメリカ陸軍のM1エイブラムス戦車などにも搭載されています。機関銃とはいえ、徹甲弾を用いた場合には駆逐艦や軽巡洋艦の外板くらいは簡単に貫通してしまうほどでした。小型の輸送船であれば、機銃掃射だけでも沈めることが可能だったようです。
 B-25は太平洋戦線でも活躍しました。戦争中盤以降になると、日本軍は劣勢に立たされ、戦闘機が不足するようになります。こうした中で、B-25は活躍していきます。大量の機関銃を積んでいるB-25は輸送船団にとっては脅威でした。輸送船団は護衛戦闘機もなく、対空火器も不足している場合が多かったためです。先程紹介したようにB-25の機銃掃射で小型の輸送船は撃沈されてしまいます。護衛の駆逐艦などであっても、B-25は十分に脅威だったと言えます。

ドーリットル爆撃

 B-25の有名を高めたのが、ドーリットル爆撃と呼ばれる日本本土空襲作戦でした。1941年12月の開戦以降、日本軍は進撃を続けていました。アメリカ軍は敗退を続けていましたが、日本軍の進撃を受け、アメリカ本土に攻めてくるのではないかと考えるようになります。
 実際、海戦以降、日本海軍は潜水艦を使った通商破壊作戦を展開していました。1942年4月には伊17乙型大型潜水艦はカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を行いました。
 こうした中でアメリカの士気は落ち込んでいました。アメリカ軍は落ち込んでいる士気を高めるために日本本土、特に首都東京を爆撃する作戦を立案します。首都東京を爆撃したならば、日本の士気は低下し、アメリカ側の士気は高揚するだろうと考えました。
 しかし、問題だったのがどのように爆撃するのかという問題です。後に日本本土への空襲が行われますが、当時は日本本土への空襲の手段がほとんどありませんでした。空母艦載機は航続距離が短く、日本本土に近付かなければいけません。しかし、日本海軍は進撃を続けており、劣勢に立たされているアメリカ軍にとっては虎の子の空母を失う危険がありました。当時は日ソ中立条約が結ばれており、ソ連の陸上基地を使う訳にもいきません。
 アメリカは海軍の航空機ではなく、航続距離の長い陸軍の航空機を空母から離陸させるというアイデアを思いつきます。空母から爆撃機を発艦させ、中華民国の飛行場に着陸させるというものです。艦載する爆撃機はB-25が選ばれました。しかし、そのままでは作戦遂行が難しかったため、改造が行われます。長距離飛行に備えて、燃料タンクが増設され、不要な装備は外されました。
 空母ホーネットやエンタープライズを基幹とするアメリカ海軍の機動部隊が太平洋を横断し、日本列島に近付きます。1942年4月18日、アメリカ海軍の空母ホーネットから16機のB-25が飛び立ちました。爆撃隊は東京、横須賀など日本本土各地を爆撃します。
 日本側の被害は死者87名、重傷者151名、軽傷者311名以上、家屋全壊・全焼112棟(180戸)以上、半壊・半焼53棟(106戸)以上でした。爆撃隊の中には国際法上禁止されている非戦闘員に対する攻撃を故意に行ったものもありました。
 爆撃隊は爆撃に成功し、15機は中国に不時着して放棄されます。1機はソ連の支配地域に不時着し、搭乗員は抑留されました。中国に不時着した爆撃隊のうち、搭乗員8名が日本軍の捕虜となりました。
 この時の爆撃の被害はそこまで多くはありませんでしたが、日本本土を空襲されたということで、日本は衝撃を受けます。特に空母から爆撃機が発進したということで、日本本土の近くまで空母を無傷で近付けてしまった海軍の衝撃は多かったと言えます。この爆撃によって、日本海軍はミッドウェー作戦の立案へと動きます。ドーリットル爆撃は戦争の帰趨に大きな影響を与えたと言えるでしょう。


参考資料
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 本土方面海軍作戦』 第85巻、朝雲新聞社、1975年6月。
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。

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