二式艦上偵察機―高速偵察機となった「彗星」

 二式艦上偵察機は、日本海軍で活躍した艦上偵察機です。元々は、後に彗星として採用される十三試艦上爆撃機を元にしていました。高速偵察機を必要としていた日本海軍が偵察機として採用します。後に採用される艦上偵察機彩雲と共に日本海軍の眼として活躍した偵察機です。今回は、この二式艦上偵察機とはどのような機体だったのかを紹介します。


十三試艦上爆撃機の開発

 二式艦上偵察機は元々、十三試艦上爆撃機として開発されました。既に艦上爆撃機については、九九式艦上爆撃機が採用されていましたが、さらに高性能な艦上爆撃機を求める声があり、ドイツから輸入したHe118の資料を参考に、新機構を盛り込んだ艦上爆撃機の開発へとつながりました。
 十三試艦上爆撃機は長大な攻撃半径と高速性能が求められました。コンセプトとしては、敵に攻撃される前に攻撃され、迎撃機を振り切ることが必要とされました。そのため、敵基地や航空母艦を先に攻撃できるように長大な攻撃半径が求められます。そして、迎撃機を振り切るような高速性能が必要とされました。
 十三試艦上爆撃機は、海軍の航空技術研究機関である海軍航空技術廠(以下空技廠)で開発されました。先程紹介したように、本機は最新技術を多数盛り込んだ設計となりました。本機で採用された機構は、後に開発される彩雲、晴嵐といった海軍機の多くにも採用されました。
 十三試艦上爆撃機の最大の特徴は、水冷エンジンです。水冷エンジンは日本の艦載機としては初めて搭載されました。十三試艦上爆撃機は、愛知航空機が製造したアツタエンジンを搭載しています。これはドイツのダイムラー・ベンツから購入したDB601Aをライセンス生産したものです。アツタエンジンの搭載により、1,200馬力で最大速度552㎞/hという爆撃機とは思えない高速性能を発揮することになります。この高速性能を活かして、二式艦上偵察機や、太平洋戦争後半には夜間戦闘機としても運用されることになります。

二式艦上偵察機として先に採用

Aichi Atsuta 21 1.jpg、武藏、CC BY-SA 4.0

 こうして高性能を実現した十三試艦上爆撃機ですが、制式化は遅れてしまいました。その原因は機体や水冷エンジンの複雑な構造でした。水冷エンジンはドイツだからこそ量産できるもので、これまで空冷式のみを扱ってきた当時の日本の技術では手に余るものでした。水冷エンジンのトラブルが相次ぎ、また整備陣にも水冷式に精通するものが少なかったためになかなか解決できませんでした。
 しかし、エンジンのトラブルがなければこれほど使い勝手が良い機体がないことも事実でした。海軍は艦上爆撃機としてではなく、艦上偵察機としての採用を望むようになります。
 当時は艦上で使うことのできる使い勝手の良い偵察機がありませんでした。特に高速性能を持った偵察機が望まれていました。当時日本海軍が偵察機として使用していた九八式陸上偵察機や九七式艦上攻撃機、そして零式水上偵察機は低速だったために敵と遭遇した場合には逃れることが難しかったのです。
 そこで白羽の矢が立ったのが、十三試艦上爆撃機の偵察機への改造でした。日本海軍は太平洋戦争開戦直前の1941(昭和16)年11月に高速性能と長大な航続距離を持つ十三試艦上爆撃機を偵察機として40機追加発注しました。
 これに先立ち、試作2,3,4号機を爆弾倉にカメラを搭載した偵察機へと改造しました。十三試艦上爆撃機は偵察機として一足早く使われることになりました。


二式艦上偵察機の活躍

 こうして改造された機体にはなかなか活躍の機会が訪れませんでした。1942(昭和17)年1月に試作四号機が第三航空隊に貸与されました。しかし、エンジンの不調で前線に到着するのに半月以上を要した上に実戦投入されずに終わりました。
 5月には偵察機に改造された試作2、3号機が第一航空艦隊第二航空戦隊に配備されました。その中の1機は翌月のミッドウェー海戦で、アメリカの機動部隊の発見に成功します。しかし、無線機の故障のために報告は母艦への帰還後となりました。結局、ミッドウェー海戦で2号機と3号機は母艦ごと失われてしまいました。
 8月15日には試作5号機が飛行訓練中に空中分解し、艦爆としては機体の強度が不足していることが明らかになりました。しかし、通常の飛行には差しさわりがないことから、爆弾層内臓式の増加燃料タンクとガンカメラを搭載し、二式艦上偵察機として正式採用されることになりました。艦上爆撃機ではなく、艦上偵察機として採用されたのです。
 二式艦上偵察機は1942年末から配備が始まりました。運用成績は比較的良好で搭乗員の評判も良かったと言います。二式艦上偵察機は当時開発が進められていた一七試艦上偵察機(後の彩雲)と共に大戦後半における日本海軍の眼として活躍しました。彩雲の登場後は、偵察は二式艦上偵察機よりも高速な彩雲が務め、二式艦上偵察機は編隊の誘導や記録が主な任務となりました。 こうして、二式艦上偵察機は採用された訳ですが、残念ながら空母機動部隊での活躍が多かったという訳ではありません。先程も紹介したように試作機が投入されたミッドウェー海戦以降、日本海軍は劣勢に立たされており、二式艦上偵察機は空母自体が少なくなってしまったために陸上基地からの発進が多い有様でした。二式艦上偵察機は、採用が少し早ければもっと活躍できたのかもしれません。




主要参考資料
雑誌「丸」編集部 編『軍用機メカ・シリーズ11 彗星/九九艦爆』潮書房、2000年。
『世界の傑作機 No.69 海軍艦上爆撃機「彗星」』文林堂、1998年。

購読する
通知する
guest

CAPTCHA


0 コメントリスト
インラインフィードバック
コメントをすべて表示