九七式重爆撃機-日中戦争以降活躍した名機

 九七式重爆撃機は大日本帝国陸軍の重爆撃機です。三菱重工業が開発し、三菱と中島飛行機が製造しました。九七式重爆撃機は、対ソ戦を想定して開発が行われました。日中戦争以降に配備が行われ、多くの戦場で活躍します。今回は九七式重爆撃機とはどのような期待だったのかを紹介します。

開発の経緯

 九七式重爆撃機の開発が始まったのは、1935年9月のことです。日本陸軍が九三式重爆撃機の後継機とる新しい重爆撃機の試作を内示しました。翌年2月に中島飛行機にキ19、三菱重工業にはキ21の試作がそれぞれ指示されます。この時に陸軍が行った主な要求は、①双発単葉機、エンジンは中島製ハ5または三菱製ハ6を装備、②最高速度は時速400km以上、③航続時間は5時間以上、④爆弾搭載量は750kg(最大1,000kg)というもので、試作機2機は1936年10月までに完成させることとしていました。
 陸軍が最高速度の速い機体を望んだのは、その運用思想が影響しています。陸軍は重爆撃機を敵が要撃準備を整える前の飛行場などの軍事目標へ投入しようと考えていました。そのため、高速性能が必要だったのです。そして、主戦場を中国大陸とみており、長大な航続距離は必要としていませんでした。また、攻撃目標は満州との国境にあるソ連軍前線基地だったので、小型爆弾を多数搭載するとしていました。このような思想の下で九七式重爆撃機は開発されることになります。
 陸軍による審査の結果、三菱、中島、双方の期待は要求を満たしており、甲乙つけがたい状況でした。陸軍は三菱を採用し、エンジンは中島製のハ5を搭載することに決定します。
 1937年に勃発した日中戦争に九七式重爆撃機の投入が望まれましたが、配備が遅れていました。ようやく九七式重爆の生産が追いつき現地に届くようになると速度性能を活かして活躍しました。
 航続距離不足・エンジンのハ5改信頼性不足という問題がありました。これらを解消するために、1939年11月にエンジンの強化を中心とした性能向上型キ21-IIの開発が指示されます。この時の変更点はエンジンを1,450馬力の三菱製ハ101に換装し、主輪を完全引込化すること、武装・防弾装備強化などでした。この機体は1940年12月に九七式重爆撃機二型として制式採用されました。九七式重爆二型は1944年9月まで量産されました。

九七式重爆撃機の活躍

 九七式重爆撃機は、1937年の制式採用以降、日中戦争、ノモンハン事件、太平洋戦争に投入されていきます。太平洋戦争中期までの主力重爆として活躍しました。先ほども紹介したように、日中戦争への配備は遅れますが、配備されるようになると活躍していきました。部隊からの評判も良かったとのことです。日本海軍の九六式陸攻と共に重慶爆撃にも投入されました。
 太平洋戦争でも主力として投入されました。戦争開始直後には在フィリピンのアメリカ軍に対して、台湾からルソン島までの爆撃に成功します。フィリピン戦では、日本軍の進撃を後押しする形でアメリカ軍の部隊を攻撃しました。
 九七式重爆撃機は各地で活躍していましたが、さすがに1943年頃になると旧式化してくるようになります。とはいえ、後継の一〇〇式重爆撃機の開発、そして実用化が遅れていたために、数々の改良を加えながら使用され続けることになります。九七式重爆撃機は、旧式化はしていましたが、まだ活躍の場は残されていました。
 昼間の爆撃は難しくなっていましたが、夜間爆撃や輸送、連絡任務などにつき、太平洋戦争終戦まで活躍することになります。珍しいところでは、対潜哨戒機としても使用されました。対潜哨戒機としては、アメリカ軍の潜水艦の撃沈にも成功しています。
 1944年夏にはB-29による日本本土爆撃が開始されます。これに対して、97式重爆撃機はB-29の基地爆撃にも投入されます。第5航空群所属の九七式重爆撃機は、中国の成都にあるB-29の中継基地に対して、夜間爆撃を行いました。
 また、サイパン島を失い、B-29の基地として本格的に整備されるようになると、サイパン島の基地に対しても攻撃が行われます。1944年11月と12月には、浜松陸軍飛行場から硫黄島を経由し、サイパン島およびテニアン島のアメリカ陸軍航空軍飛行場に夜間の奇襲爆撃を行いました。この攻撃は成功し、無事戦果を挙げています。これに対しては、司令官からの感状だけでなく、昭和天皇と飛行隊長の謁見が許されるほどの戦火として認められました。
 1945年にはすでに敗色濃厚となっていましたが、5月24日に沖縄戦の最中、アメリカ軍の占領下にある沖縄の北飛行場(読宮飛行場)を強襲する義烈空挺隊の輸送にも用いられました。
 結局、九七式重爆撃機は太平洋戦争終結まで用いられることになります。最終的に生産されたのは、2,055機にも上りました。これは帝国陸軍の重爆撃機の中で最も多く量産された機体になります。内訳は一型773機、二型1,282機(甲1,025機・乙257機)です。太平洋戦争終結まで活躍した九七式重爆撃機は間違いなく、日本陸軍を支えた名機といえるでしょう。



主要参考資料
『世界の傑作機 No.153 陸軍九七式重爆撃機』文林堂、2013年3月。

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