第一次アキャブ作戦は、ビルマ(現在のミャンマー)で行われた、日本軍とイギリス軍の戦いです。ミッドウェー海戦、ガダルカナル島からの撤退と、太平洋戦線では日本軍の敗色が徐々に濃くなっていました。
一方、ビルマの連合軍にはまだ本格的な反攻作戦を行う力はありませんでした。こうした中で連合軍は限定的な反攻作戦を実施します。これに対して、日本軍は増援を繰り出して、連合軍を食い止め、大損害を与えました。第二次アキャブ作戦は完全な失敗に終わったのとは対照的に第一次アキャブ作戦では日本軍が勝利しました。ここでは、第一次アキャブ作戦とはどのような作戦だったのかをその背景を含めて紹介します。
ビルマ進攻作戦
1941年12月8日に太平洋戦争が始まると、第33師団と第55師団からなる日本軍第15軍はタイに進駐し、そこからビルマへと進攻します。ビルマは、イギリスの植民地であり、イギリスの国力の源泉であるインドの隣国にあたります。日本軍は、ビルマを押さえ、インドを牽制、時機が来ればインド進攻を行うつもりでした。
日本にとってビルマが重要だったもう一つの理由は、中国戦線です。太平洋戦争開戦以前から、日本は中国と戦闘状態に入っていました。しかし、日本軍は優勢を維持していましたが、日中戦争が終わる兆しは見えません。中国に対して、アメリカなどは様々なルートを使って援助を行いました。香港など沿岸部からのルートと、当時フランス領植民地だったインドシナ半島を経由するルート、ビルマから雲南省へと至るルート、そしてソ連経由です。
1939年時点に日本の陸軍参謀本部が行った輸送量の推計では、香港経由が6000トン、ソ連ルートが500トン、インドシナルートが15000トン、ビルマルートが10000トンとされています。
このうち、インドシナ経由のルートは1940年9月に北部仏印に日本軍が進駐したために封鎖されました。そのため、ビルマから雲南省へと至るルートの重要性が増します。ビルマの港湾都市ラングーンから雲南省の昆明へと至るルートを開拓し、ビルマ鉄道、ビルマ公路を建設していました。ビルマ進攻作戦はこの連絡路の遮断も目的でした。 ビルマ進攻作戦は開戦時ですらもその詳細は固まっていませんでした。しかし、シンガポール攻略の進展が予想よりも早く、日本軍が南方に投入した戦力に余裕が生じ、ビルマ全域の占領を目指して作戦が開始されます。1942年5月末までに日本軍がビルマ全域の制圧に成功します。
連合軍の反攻
1942年4月に行われたミッドウェー海戦での敗北や、1943年2月のガダルカナル島からの撤退と、日本軍の敗色が濃厚になってきました。連合軍、特にアメリカ軍は太平洋戦域から日本本土を目指します。
一方、ビルマ戦線で、アメリカ・イギリス・中国軍が反撃を仕掛けようとしていました。こうした中で行われたのが、第一次アキャブ作戦です。第一次アキャブ作戦は、ビルマ西岸のアキャブで1942年末に行われました。アキャブはその後シットウェと呼ばれますが、ベルガル湾岸に位置し、インドとビルマの境に位置しています。この作戦で、連合軍は第二チンディット部隊を派遣し、北部ビルマの奪還を図ります。
連合軍の敗退
アキャブ方面は、1942年5月に日本軍の第33師団によって制圧されました。1942年9月以降は、第55師団に所属する第213連隊(宮脇支隊)が配備されていました。
ここに連合軍が攻撃を仕掛けます。攻撃を仕掛けたのは、インドから進攻してきた第14インド師団です。イギリス軍の攻撃に対して、第213連隊の主力が迎撃を行います。そして、アラカン山脈の反対側に居た1個大隊が迎撃に加わり、イギリス軍を南北から挟み撃ちにしました。そして、第55師団がベンガル湾から上陸し、日本軍の攻撃を支援します。
結局、イギリス軍の攻撃は失敗しました。結果から見ると、イギリス軍の旅団長を捕虜とするなど、日本軍の大勝利でした。イギリス軍の公式発表によると、戦死者916名、負傷者2889名、行方不明者1252名としています。一方、日本側の統計では、遺棄死体が4789名、捕虜483名としています。そして、戦車・装甲車40両及び自動車73両が日本軍に鹵獲されました。対する日本側は戦死者611名、戦傷者1165名でした。これは参加部隊の30%に上りますが、日本軍が勝利を収めたのは間違いありません。
アキャブ作戦の失敗に対して、ビルマ方面で指揮を執っていたウィリアム・スリム将軍はこの敗戦がそこまで大きな損失ではなく、敵に相当な損失を与えたと評価しました。加えて、日本軍の後方を襲い、帰還したことはイギリス軍の勝利であると宣伝します。ビルマ戦線はジャングルの奥深くが戦場であり、日本軍の連勝によって、イギリス軍の士気が非常に低くなっていました。しかも、イギリスにとって、ビルマは関心が小さく、「忘れられた軍」と呼ばれるほどでした。こうした中でスリムは士気改善に努めており、イギリス軍の士気をさらに低下させるわけにはいかなかったのです。
ビルマ戦線での失敗から、イギリス軍は改善を進めていきます。優秀な兵士を教育し、日本軍支配地域に斥候を出し、部隊へと帰還した後は、成功談を広めたり、日本兵の小銃や肩章などを戦利品として持ち帰らせます。そして、日本軍に対して、常に数で圧倒するように堅実な作戦を行い、勝利経験を積ませていきます。こうして、日本軍への優越感を育てていき、ビルマ戦線での勝利へとつなげていったのです。
主要参考資料
防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書5 ビルマ攻略作戦』朝雲新聞社、1967年。
防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書15 インパール作戦 ビルマの防衛』朝雲新聞社、1968年。