B-17 フライングフォートレスーヨーロッパ解放の立役者

 B-17フライングフォートレスは、アメリカのボーイング社が開発した大型爆撃機です。愛称のフライングフォートレスが示すように防弾装備と防御用の火器で身を固めており、撃墜が難しい爆撃機でした。この機体は、ヨーロッパ戦線や、アジア・太平洋でも活躍し、アメリカの勝利に貢献しました。今回はB-17とはどのような機体だったのかを紹介します。

沿岸防衛用として開発

Boeing XB-17 (Model 299). (U.S. Air Force photo)

 B-17の開発が開始されたのは、1934年8月8日でした。この時、アメリカ陸軍は、当時の主力爆撃機であるB-10爆撃機の後継機の開発を要求します。B-10は双発の爆撃機でしたが、アメリカ陸軍の要求は航続距離と爆弾の搭載量を2倍に増やすというものでした。
 このような要求が出された背景には、アメリカならではの事情がありました。アメリカは大陸部分が広大であるだけでなく、アラスカやハワイなどの本土から遠く離れた場所も防衛する必要があります。新型爆撃機に求められていたのは、アメリカに上陸してくる敵軍を海岸線で食い止めるというものでした。そのため、航続距離や爆弾搭載量を増やす必要があったのです。このコンセプトは後に変更されました。新型爆撃機は、沿岸防衛のための哨戒機と敵艦を攻撃する機体としての役割だけでなく、敵国の工業施設を戦闘機の護衛なしで攻撃する能力が求められるようになります。
 こうした要求を満たすために新型爆撃機は、機体を防弾装備で固め、防御用の機銃を多数搭載することになります。防御用の機銃は試作機では5丁、後期型では13丁にも上りました。機体重量が多くなり、航続距離を伸ばすために4基のエンジンを搭載することになりました。加えて、高高度を飛ぶために、排気タービン過給機を搭載します。これは、高高度では空気が薄いため、それを十分な密度に圧縮するというものでした。
 新型爆撃機はB-17と命名され、1935年7月28日に初飛行に成功しました。

ヨーロッパ戦線での活躍

 B-17が活躍したのは、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線でした。開戦直後、イギリスにB-17の貸与が行われます。しかし、この時は少数の貸与で、搭乗員や整備員も未熟であり、爆撃照準器も後に活躍するノルデン照準器ではなかったために、目立った成果は上げられませんでした。B-17が戦果を挙げるのは、アメリカが参戦して以降です。
 日本の真珠湾攻撃によって、アメリカが参戦すると、B-17も投入されました。当時は、既に連合軍が大陸からイギリスへと撤退しており、イギリスを拠点に欧州反攻に向けた足固めをしていました。
 B-17はイギリスを基地として、ドイツへ日中の爆撃任務に従事します。しかし、十分な戦力を蓄積しようとしていた時に北アフリカでの戦いに戦力が抽出され、ヨーロッパへの本格的な爆撃作戦は実施できませんでした。
 ようやく戦力が整った1943年からヨーロッパへの爆撃作戦が本格化します。まずは距離の短いフランスへの爆撃を行い、経験を積んでから、ドイツ本土へと移っていきます。
 B-17はドイツの迎撃戦闘機によって損害を受けていましたが、強固な防弾性と防御火器によって、任務を遂行していきました。B-17の大編隊が形成する防御火器の濃密な弾幕は、ドイツの迎撃戦闘機を撃墜することもしばしばでした。
 B-17は4発機であり、1基や2基のエンジンが止まったり、機体や翼に損傷があっても、飛び続けることが出来ます。損害を受けながらも、イギリスまで帰還する例が多くあったようです。ヨーロッパにおいては、戦争終結の立役者の一つであったのは間違いないでしょう。

アジア・太平洋戦線における活躍

 B-17はアジアや太平洋における戦いでも活躍しました。1941年12月8日の真珠湾攻撃による開戦の段階で、B-17はハワイやアラスカ、そしてアリューシャン列島などのアメリカ領にある基地に配備されていました。それに加えて、アメリカの植民地であるフィリピンからも出撃します。開戦後は、オランダ領東インド、オーストラリアにも配備されました。
 真珠湾攻撃においては、ハワイのヒッカム飛行場にあるB-17は日本の攻撃機によって、損害を受けたりしました。また、オランダ領東インドでも日本軍の一式戦闘機隼と交戦しています。アリューシャン方面では、上陸してくる日本軍と援護する艦隊への空襲を行ったりしました。ニューギニア方面では、ポートモレスビーを根拠地にラバウルなどの日本軍の根拠地に空襲を行います。
 日本軍にとって、B-17は戦いづらい相手でした。防弾性が高く、大きな期待だったために距離の測定が難しかったためです。日本軍も鹵獲機を使って、B-17の対策に乗り出します。B-17を撃墜するためには機銃の威力増大が不可欠として、大口径の機銃の搭載にも乗り出しました。
 しかし、B-17はより航続距離の長いB-24が配備されるようになると、B-24に改編されていきます。1945年5月にドイツが降伏すると、ヨーロッパのB-17を日本本土爆撃に充てるとする意見も上がりましたが、B-29を大量生産した方が効率的とされ、日本本土爆撃には投入されませんでした。B-17はB-29やB-24の支援を行うのみでした。


主要参考資料
・『ボーイングB-17フライングフォートレス (世界の傑作機スペシャル・エディション Vol. 4)』文林堂、2007年。

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