日本陸軍の西竹一大佐は、華族の出身であることから「バロン西」の愛称でも親しまれた人物です。オリンピックの馬術競技で金メダリストだった西は海外の社交界でも知られた存在でした。騎兵将校から戦車連隊の指揮官となり、1945年の硫黄島の戦いで戦死しています。
★男爵家の跡取りに生まれる
西は1902年(明治35年)、男爵家の三男として東京都麻布に生まれました。二人の兄は幼い頃に亡くなっており、10歳のときに父親が亡くなると、西は当主の座を継いで男爵になります。1917年(大正6年)、広島の陸軍地方幼年学校に入学した西は、第36期生として陸軍士官学校へ進み、1924年(大正13年)の卒業後には騎兵科少尉に任官しました。
★オリンピックで金メダル選手に
西の名を世界に広く知らしめたのが、1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルスオリンピックでの活躍でした。西が乗馬をはじめたのは士官学校に入校してからでしたが、興味のあるものにはとことん打ち込む性格だった西は、みるみる腕前を上達させていきました。クセ馬を熱心に調教して乗りこなし、自分のオープンカーを飛び越えさせたエピソードも残されています。そんな西が生涯の愛馬としたのが、欧米出張中にイタリアで出会ったウラヌス号でした。自らの私費でこの馬を購入した西は、ウラヌスともにヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、好成績をおさめていきました。その腕前が認められ、ロサンゼルス五輪では馬術競技の選手に選ばれています。当時、オリンピックの馬術代表選手はそのほとんどが各国軍の騎兵将校でした。ウラヌスに跨った西は鮮やかな手綱さばきで優勝をおさめ、この大会で見事金メダルを手にしました。これは2020年現在においても、日本がオリンピックの馬術競技で獲得した唯一のメダルとなっています。
★バロン西として欧米の社交界で人気に
金メダリストとなった西は、端正な容貌と180cmの高身長に加え、オープンカーを乗り回し、流暢な英語を操りロスの高級レストランでハリウッド女優と会話を交わすなど、スマートな振る舞いから、アメリカ滞在中に「バロン西」と呼ばれて社交界の人気者になります。西はロサンゼルスの名誉市民にも選ばれ、当時、アメリカ人からの差別感情に晒されていた在米の日本人・日系人からも人気を集めました。ラスベガスで行った時にはギャンブルで現代の5億円以上に相当する大金を使い切ったエピソードもあり、西には派手な一面もあったようです。この時の活躍が、西が欧米からも名前を知られるきっかけとなりました。
★騎兵科将校から戦車兵に
オリンピック後、西は陸軍騎兵学校の教官や騎兵第一連隊の中隊長、陸軍省軍馬補充部などを歴任し、騎兵のスペシャリストとしての道を歩んでいきます。しかし、1930年代以降、第一次大戦での戦車の登場を受け、徐々に日本陸軍でも機械化が進行し、騎兵部隊は削減され、変わって戦車部隊が新設されていきました。こうした流れの中、西も1942年(昭和17年)から騎兵中隊と装甲車中隊を組み合わせて偵察を行う師団捜索隊の隊長をつとめ、さらに、陸軍中佐に昇進した1944年(昭和19年)からは満州北部の防衛にあたる戦車第二十六連隊の連隊長に着任しています。
★硫黄島への進出
この頃になると、太平洋の戦況は逼迫しており、戦車第二十六連隊も対米戦に投入されることになります。最初はサイパンへと送られる予定でしたが、現地の守備隊がすぐに玉砕してしまったため、硫黄島への進出が決まりました。しかし、日本近海はすでに米潜水艦が跋扈しており、第二十六連隊も輸送船に敵潜の雷撃に遭い戦車28両を喪失します。連隊の戦死者は2名にとどまったものの、西たちも数時間海の上を漂流することになりました。救助後、すぐに本土へ戻った西は、方々に手を回して戦車23両を調達し、愛馬ウラヌスに別れを告げて、再び硫黄島を目指しました。西の尽力により、第二十六連隊は九七式中戦車11両、九五式軽戦車12両の陣容で米軍を迎え撃つことができるようになったのです。
★バロン西の最後
1945年(昭和20年)2月19日に米軍が上陸を開始し、硫黄島の激戦が始まりました。西ら第二十六連隊は、戦車をダッグインさせたり、砲塔を取り外してトーチカ代わりにしながら勇戦し、最後には戦場に遺棄された米軍兵器を鹵獲してまで戦ったといわれます。西がどのような最期を迎えたかについては、3月21日から22日ごろのこととされますが、戦死時の状況などはっきりしたことは分かっていません。敵中突破の最中に敵弾を受けて戦死したとするものや、双子岩の近くで拳銃自決したとするもの、火炎放射器に片目をやられながらも最後の突撃を行ったとするものなど諸説あり、直前にはアメリカ軍が西に向けて投降を呼びかけたとする話もあります。享年43歳、戦死後、大佐に昇進しています。そして、西の戦死からわずか一週間後の3月末には、愛馬ウラヌスも主人の後を追うように息を引き取りました。ウラヌスは享年26歳でした。生前の西が「自分を理解する人間は少ないが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」と語ったように、主人と愛馬の間にはなにか通じるものがあったのかもしれません。