カラブリア沖海戦とイタリア海軍の「弱い」印象

 第二次世界大戦において「イタリア軍は弱い」というレッテルを張られることが多く、ある面で事実でもあります。ただ戦争にはプロパガンダが付きもので、実情と違った面も多く見られます。 1940年7月9日にイタリア海軍と、イギリス海軍及びオーストラリア海軍によって行われた「カンブリア沖海戦」は戦術的には引き分けといえる内容でしたが、それ以降のイタリア海軍の消極的な姿勢と、連合国によるプロパガンダによってイタリア海軍の印象は決定的になりました。 この記事では、カラブリア沖海戦をとおして、第二次世界大戦時にイタリア海軍が置かれた状況を解説します。


カラブリア沖海戦の前後のイタリア海軍

 第二次世界大戦におけるイタリア海軍の主戦場は地中海でしたが、戦艦などの大型艦艇も保有しながら大きな戦果は挙げられませんでした。それどころか降伏時には、連合国への合流を阻止するためのドイツ軍により攻撃を受け、旗艦ローマが戦史上初めて対艦ミサイルで撃沈されるという悲しい結末を迎えたのです。
 これにはイタリア海軍が抱えていた致命的な問題が大きく影響していました。まずはカラブリア沖海戦に至るまでのイタリア海軍と、その後に起きた変化について見ていくことにしましょう。

開戦時のイタリア海軍

 1940年6月10日、枢軸国側としてイギリスとフランスに宣戦を布告しました。自国の経済と軍備では長期戦は不可能だと理解していたムッソリーニや軍部でしたが、戦争は長続きしないという楽観的な予測による参戦でした。
 フランス侵攻におけるあまりに圧倒的なドイツの戦果や、ソ連やアメリカが中立を守っている状況をみて、参戦に慎重だった軍部や国王までもが参戦を主張し始めた結果でした。
 参戦時のイタリア海軍は明らかな準備不足であり、海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリは、燃料不足のため主力艦隊を温存する策「現存艦隊主義」をドクトリンとして定め、主要な作戦は潜水艦と小型艦艇による船団襲撃としました。
 このとき稼働可能な艦艇は、戦艦2隻、水上機母艦1隻、巡洋艦22隻、駆逐艦59隻、水雷艇69隻、潜水艦117隻となっていて、1942年を目途に新造していた4隻を含む6隻の戦艦はドックの中でした。

地中海の戦いの始まり

 もともとイタリア海軍はフランス海軍を仮想的としていたのですが、いざフランスに宣戦布告してもイタリア海軍の動きは活発ではありませんでした。
 これは「ドイツの勝利が確実な情勢で、講和会議で勝者側に立つ」という、ムッソリーニの日和見的参戦だったためで、現存艦隊主義もあってフランス海軍がイタリア工業地帯を砲撃し、これを迎え撃った1940年6月14日の「ジェノヴァ沖海戦」が目立つ程度です。
 1940年6月22日フランスはドイツと休戦し事実上敗北し、イタリアとも6月24日にヴィッラ・インチーサ休戦協定を締結し、地中海からフランス海軍は消えました。

カラブリア沖海戦

 フランスの敗戦によりイタリア海軍の敵はイギリス海軍となりました。しかし質でも量でも劣るイタリア海軍は主力艦隊による決戦は避け続けていました。そのなかで偶発的にイタリア海軍とイギリス海軍の海戦に至ったのが「カラブリア沖海戦(イタリアではプンタ・スティーロ海戦)」です。
 イタリア第一艦隊及び第二艦隊は、リビアのベンガジへ向かった5隻の輸送船の護衛任務を終え、タラント軍港への帰途でイギリス海軍とオーストラリア海軍の連合国艦隊と遭遇しました。連合国艦隊もマルタからアレクサンドリアへ向かう船団の護衛だったため、双方が意図しない海戦だったのです。
 カンブリア沖海戦では、イタリア海軍も連合国艦隊も決定的に戦果を挙げることができなかったのですが、ベンガジへの護送任務を終連合国艦隊のマルタ島到達を阻止した点では、イタリア海軍の戦略的勝利ともいえます。
 ムッソリーニは「イギリス艦隊を撃退した一大勝利」と称える一方で、イギリス側も勝利を確信して宣伝戦に力を入れました。しかし重要だったのは、このカラブリア沖海戦と7月19日のスパダ岬沖海戦で、イタリアの海軍と空軍の連携の悪さが露呈したことで、この後にイギリス海軍の行動は大胆さを増していくことになります。

イタリア海軍の消極策

 カラブリア沖海戦は、カラブリア半島の東沖48kmという地点で行われ、当時タラント港に停泊していた戦艦2隻を2~3時間で戦線に投入可能でした。しかし結果的には投入することなく、戦況を変えるチャンスは生かされませんでした。これも主力艦の喪失を恐れたための判断だと言われます。
 これ以降イタリア海軍は、現存艦隊主義を続けることとなり、11月のタラント空襲による悲劇を招いてしまいました。

必然だったイタリア海軍の無力化

 歴史は結果が分かっているから、勝った側にも負けた側にも、その理由について評価されます。しかし少なくともイタリア海軍は、開戦当初からイギリス海軍に勝てる見込みは持っておらず、そのための現存艦隊主義でした。
 参戦当初から欠点が多く、次第に無力化していくことは必然でした。ここからはイタリア海軍の弱点の数々と、それをいち早く看過したイギリス海軍によるプロパガンダを見ていきましょう。

制空権の重要性とイタリア海軍

 第二次世界大戦では「制空権」の重要性が確立し、戦艦が主役だった大艦巨砲主義は終焉を迎えました。その点でいえば世界的に見ても早くに空軍を「イタリア王国空軍」として独立させたイタリアは、空軍先進国ともいえるものでした。
 しかしこれが裏目に出ることになります。ムッソリーニは空軍を先進的な存在であるとして優遇し、航空戦力は空軍が独占することにしたのです。航空戦力の不足したイタリア海軍に対して、イタロ・バルボ空軍元帥は旧式の複葉機しか配置しなかったうえ、その管理も空軍が行うとしました。
 海軍側が空軍に支援要請を求める際に、いちいち空軍参謀本部の許可を得なければ空軍側も航空支援を行えなかったため、海軍と空軍の連携は全く機能せず、制海権を失う要因の一つとなったのです。

最新装備の軽視

 イタリア海軍には優れた点も多く、とくに砲撃戦の結果に大きな影響を与える測距儀(距離測定器)の性能は高く、連合国海軍のそれより優れていました。イタリア海軍首脳部もこれには自信を持っていたのですが、そのために進化する技術を軽視する結果となったのです。
 海軍の研究者らによって1936年にイタリア軍初のレーダー「E・C・1」が開発されていたのですが、海軍首脳部は不用の装備と判断しました。
 優れた測距儀は昼間の砲撃戦では、イタリア海軍首脳部の目論見どおり力を発揮しました。しかしレーダーを装備していないイタリア艦艇は、夜間となると一方的な攻撃を受けることになり、1941年3月の「マタパン岬沖海戦」では、夜間の奇襲攻撃を受けたイタリア海軍が重巡3隻を一気に失う結果となったのです。

最後まで続いた燃料不足

 イタリア海軍を常に悩ませていた最大の問題が「燃料不足」でした。この問題は戦争以前にイタリアが抱えていた弱点で、そのほとんどを輸入に頼っていたため、フランスへ宣戦布告した時点で海軍が使用できる備蓄は約8ヶ月分しかない状態だったのです。
 結果的に燃料消費の大きい主力の大型艦は、行動したくても出来ないということになり、戦争期間中は潜水艦や水雷艇が作戦の中心となりました。実はこれらの小型艦艇はかなりの戦果を挙げており、強大なイギリス海軍に善戦したといえるものでした。
 燃料不足は深刻さを増していき、1942年8月以降は大型艦の運用は不可能になり、1943年になると水雷艇しか活動が出来なくなるほどでした。

イギリスによるプロパガンダ

 カラブリア沖海戦の結果は、イタリア海軍が弱点を浮き彫りになった点で、戦果とは比較にならないほどの利益をイギリス海軍にもたらしました。
 一つはその後も継続された「現存艦隊主義」によるイタリア海軍の消極性で、燃料不足と相まって、イタリア全体の士気に係るような深刻さとなりました。
 また海軍と空軍の連携の悪さもイギリス海軍の把握するところとなり、その後のタラント空襲に見られるような大胆な作戦に繋がっていきます。
 そしてこれらの事実は、イギリスによるプロパガンダの格好の材料となり、「イタリア軍は弱い」というイメージは決定的になったといえるでしょう。また自軍兵士にそう思わせることは、士気向上に大いに役に立ったのです。

まとめ

 イタリア海軍の弱いイメージは、開戦準備も整わないまま勝ち馬に乗ろうとした政治判断の失敗に原因があり、最悪の条件のなかで善戦していたという事実は、イギリスのプロパガンダで消え去ったといえます。その契機になったのが「カラブリア沖海戦」でした。
 そのため「イタリアが最強だったのは、陸軍はユリウス・カエサルのころで、海軍はベネツィア共和国のころ」や、「相手がイタリアというだけで敵軍の士気が上がる」などと揶揄されますが、その原因はけっしてイタリア海軍の現場兵士にはなかったのです。



主要参考資料
・「イタリア軍入門1939-1945」 ・・・ 吉川和篤/山野治夫
・「Viva!知られざるイタリア軍」 ・・・ 吉川和篤

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