第二次アキャブ作戦は、1944年2月に行なわれました。ビルマ西部沿岸のアキャブからインド国境付近にいるイギリス領インド軍(英印軍)の殲滅を目指したものです。作戦は失敗し、東南アジア方面で日本軍が主導権を失うきっかけとなったとも言われています。今回は第二次アキャブ作戦を紹介します。
敗色が濃厚な日本軍とビルマ戦線
日本軍の敗色が徐々に濃くなっていく中、ビルマ方面では日本軍が守勢に転じている一方で、イギリス軍が日本軍の防御を破れないという状況が続いていました。1942年12月から1943年3月に行われた第一次アキャブ作戦では、イギリス軍の進攻を日本軍が防ぎ、圧勝にも近い勝利を収めることに成功します。他の戦域と比較すると、ビルマ方面ではまだ日本軍の敗色が濃厚という訳ではありませんでした。
こうした中で、まだ日本軍に余力があるうちに攻勢に出ようという意見が出されるようになります。こうして推進されることになったのがインパール作戦です。インパール作戦は、イギリス軍の反攻拠点となっているインパールを攻略し、さらにインドの奥へと進攻するというものです。インパール作戦は大失敗に終わりますが、他の戦線での敗色が濃くなっており、ビルマ戦線で勝利を収めようと躍起になっていました。
一方、第一次アキャブ作戦が失敗したとはいえ、イギリス軍が戦力の立て直しを行っており、北部山岳地帯では中国への援助ルート打通作戦の準備を行っていました。こうした中で、日本軍は第二次アキャブ作戦を開始したのです。
第一次アキャブ作戦の成功を再び
アキャブはビルマ西部にあり、飛行場、港湾を有する日本軍の重要拠点でした。それだけでなく、インドの英印軍の拠点であるチッタゴンにも近接している拠点でした。
1944年1月9日にビルマインド国境のビルマ側の町マウンドオが英印軍に占領されます。その後も英印軍が徐々に進出し、日本軍の勢力範囲からアキャブへとつながるルートが脅かされるようになりました。
こうした中で、ビルマ方面軍はアキャブ防衛のために付近の英印軍を殲滅する必要性を認識します。加えて、1944年1月7日にインパール作戦の実施が大本営により許可されました。アキャブ周辺の英印軍殲滅と、インパール作戦前の陽動作戦として第二次アキャブ作戦の準備が命令されます。 第二次アキャブ作戦は、第55師団第55歩兵団(桜兵団)を主力として計画されました。これに第7飛行師団が支援を行います。この中には、第一次アキャブ作戦で奇襲を行い、敵一個旅団の包囲殲滅及び一個師団の撃破を行った精鋭の歩兵第112連隊も含まれていました。当時の日本軍は第一次アキャブ作戦の成功を再現し、チッタゴン進攻まで公言する指揮官までいたほどです。
作戦の失敗
日本軍は作戦開始後、すぐに各地で英印軍の包囲に成功します。日本軍は勝利を達成するかと思われましたが、英印軍は作戦行動通りに行動しただけでした。英印軍は、マユ川上流に広がる内陸部の盆地であるシンゼイワ付近に通称「アドミン・ボックス」と呼ばれる密集陣を展開します。英印軍は包囲されたままで空輸による補給・増援を受け、頑強に抵抗します。日本軍は航空優勢を獲得出来ておらず、英印軍への補給を止めることはできませんでした。
頑強に抵抗する英印軍に対して、日第55師団の花谷正師団長や第55歩兵団長の桜井徳太郎少将はイギリス軍の抵抗に対して、有効な対策を講じることは出来ず、やみくもに攻撃命令を繰り返すのみでした。
攻撃をただ繰り返すのみの日本軍に英印軍は抵抗を続けていきます。包囲されているにもかかわらず、英印軍への補給は空軍によって継続されていました。海岸部では海軍による補給も行われています。
一方、日本軍は4日分しか弾薬や食料を携行していませんでした。戦況の悪化に伴い、日本軍は制海権を失っており、海上輸送に支障をきたしていました。これを受け、日本軍は泰麺鉄道を建設し、補給路を維持しようとしましたが、日本軍の補給はままならない状況が続いていました。
第二次アキャブ作戦でも日本軍は十分な補給物資を有していませんでした。部隊は4日分しか物資を持っておらず、イギリス軍の物資を奪取して作戦を継続しようと考えていました。しかし、英印軍は頑強に抵抗を継続しており、日本軍が頼みにしていた物資は手に入りません。
物資を消費してしまった日本軍は包囲しているにもかかわらず、劣勢に立たされてしまいます。日本軍は戦線を維持できなくなっていました。作戦の中核を担っていた第112連隊の戦線も崩壊しましたが、上層部は突撃命令を繰り返すのみでした。
こうした状況に業を煮やし、第112連隊の連隊長の棚橋真作大佐は師団長との無線を封止し、撤退を命令します。これは軍令違反にあたり、師団長は激怒しましたが、事が大きくなることを恐れ、作戦中止を追認します。しかし、棚橋連隊長は花谷師団長の作戦指導の杜撰さを報告しましたが、棚橋連隊長の行為が非難されるのみで、師団長の責任が追及されることはありませんでした。
この作戦はビルマ戦線崩壊の始まりに過ぎませんでした。補給の軽視、杜撰な作戦、指揮命令系統の崩壊といった問題は、その後のインパール作戦でさらに大規模に展開されることになるのです。
主要参考資料
防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書5 ビルマ攻略作戦』朝雲新聞社、1967年。
防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書15 インパール作戦 ビルマの防衛』朝雲新聞社、1968年。