第一次世界大戦で塹壕戦による膠着状態を打開するため登場した新兵器が戦車ですが、当時は戦局を大きく変えるほどの影響力はありませんでした。
第一次世界大戦後に、各国で戦車の研究開発が進められたなか、イギリス陸軍が開発した戦車の一つがクルセーダー巡行戦車です。
この記事では、試行錯誤の途中で生まれたクルセーダー巡行戦車を解説します。
イギリス陸軍の戦車思想とクルセーダー巡行戦車
第一次世界大戦後、多くの国で来るべき次の戦争で戦車に求められる性能について試行錯誤が続いていました。そのなかイギリス陸軍が出した答えの一つが「巡行戦車」という存在で、当時の技術力では妥当な考えの産物といえます。
その後の第二次世界大戦で一気に陳腐化してしまった巡行戦車ですが、クルセーダー巡行戦車の登場までの経過を追ってみることにします。
巡行戦車と歩兵戦車
イギリスに限らず、多くの国では次の戦争においても塹壕戦が繰り返されると考えられていました。つまり塹壕戦で歩兵の支援を行える重装甲と榴弾の装備、そして敵戦車に対抗しうる機動力や徹甲弾の採用です。
しかし戦間期の技術ではすべての性能をみたす戦車の開発は困難だったことから、イギリスでは対戦車戦を想定した「巡行戦車(cruiser tank)」と、歩兵支援用の「歩兵戦車(infantry tank)」を、それぞれ別に開発することになりました。
巡行戦車に求められた要求性能で最優先されたのが走行速度で、それを実現するために犠牲にされたのが装甲の厚さだったのですが、当時の各国陸軍も同様の戦車開発を行っていたのでイギリスだけが特異だったわけではありません。
ソ連のBT戦車やドイツの二号戦車も似たような思想で設計された軽戦車でした。しかし大きな違いが出るのは、ソ連やドイツが1936年7月から始まったスペイン内戦に参加して、軽戦車の実践運用をとおして問題点を把握できたのに対して、イギリスにはそれがなかったからです。
巡行戦車の系譜とクルセーダー巡行戦車
イギリス陸軍で最初に採用された巡行戦車は「Mk.Ⅰ」で、完成したのは1936年のことです。そこからクルセーダー巡行戦車の登場する1940年4月までのあいだに、計6種類もの巡行戦車が作られています。
名称 | 完成年 | 生産数 |
Mk.Ⅰ | 1936年 | 125輌 |
Mk.Ⅱ | 1938年 | 175輌 |
Mk.Ⅲ | 1938年 | 65輌 |
Mk.Ⅳ | 1939年 | 665輌 |
Mk.Ⅴ カヴェナンター | 1940年 | 約1,700輌 |
Mk.Ⅵ クルセーダー | 1940年 | 約5,300輌 |
こうしてみると大戦が近くなって一気に生産数が増えたことが分かりますが、数をそろえることを優先するあまり、多くの問題を抱えたまま戦場に送られることになりました。
またMk.Ⅴカヴェナンターにいたっては、問題が深刻過ぎて実戦に投入されることがないまま訓練用として大戦期を過ごしています。
クルセーダー巡行戦車のスペック
クルセーダー巡行戦車は輸送上の制約から20tという重量に抑えられ、最高速度は43km/hという性能を与えられした。そのため装甲厚が犠牲にされているのは巡行戦車の宿命ですが、巡行戦車にしては重量が増えたためエンジントラブルの多い車体となってしまい、実戦でも故障が多発することになります。
搭載された主砲は、オードナンスQF2ポンド砲(40mm)ですが、驚いたことに対戦車戦しか想定していなかったため徹甲弾しか準備されていませんでした。これも実戦で問題されることになります。クルセーダー巡行戦車の完成形と言われる「クルセーダーMk.Ⅲ」では、6ポンド砲(57mm)に換装されていますが、やはり榴弾を打てないという欠点を引きずっていました。
北アフリカ戦線での戦闘
クルセーダー巡行戦車の配備が始まったとき、イギリス陸軍はダンケルクから追い落とされ、ヨーロッパ戦線から駆逐されていました。そのような時期、実戦に投入されたのはイタリア陸軍の自滅的侵攻作戦失敗の尻ぬぐいのため、北アフリカ戦線に投入された「砂漠の狐」エルヴィン・ロンメル率いるドイツアフリカ軍団と対峙するためです。
欠点があっても使い続けられたクルセーダー
北アフリカ戦線へ投入されたクルセーダー巡行戦車は、数々の欠点が露わになってしまいます。アフリカ軍団の主力戦車は三号戦車でしたが、クルセーダーが500ヤード以内まで接近しなければ三号戦車を破壊できなかったのに対し、相手はその倍の距離からでもクルセーダーを破壊できたのです。
また連合軍戦車にとって脅威となっていたドイツ軍の88mm高射砲に対し、榴弾を打てないクルセーダーは有効な攻撃を行うことができず、これも北アフリカ戦線初期に連合軍が苦戦した大きな要因となりました。
つまり前線に投入されたときには時代遅れで役に立たない戦車になっていたクルセーダー巡行戦車だったのですが、他に替えがなかったため1943年5月のチュニジアの戦いまで使い続けることになったのです。
大戦後期のクルセーダー巡行戦車
北アフリカ戦線で戦い続けたクルセーダー巡行戦車ですが、その戦いの後期にはアメリカから供与されたM4シャーマン中戦車や、クルセーダーの後継巡行戦車Mk.Ⅷクロムウェルに主役の座を譲っています。
第二次世界大戦の後期になると、フランスの亡命政府である自由フランス軍に供与されたり、牽引車両に転用されたりしたクルセーダー巡行戦車は、前線から消えながらも終戦まで使用されたのです。
まとめ
イギリス陸軍が実戦からのフィードバックもなしに開発を続けたなか生まれたのがクルセーダー巡行戦車です。その試作車が完成したのは1940年4月のことですが、その頃ソ連ではスペイン内戦の戦訓をもとに開発され、クルセーダーを上回る速度に76.2mm砲を備えたT-34が走行試験を行っており、すでに周回遅れとなっていたことが分かります。
兵器は実戦によって大きく進化するもので、その差がいかに大きいものかがクルセーダー巡行戦車をとおして伝わってきます。
主要参考資料
・『北アフリカ戦線 1940-1943』 学研パブリッシング〈歴史群像アーカイブVol.11〉