この記事は前回記事( https://rekishi-yaru.com/cuban_missile_crisis-2/ )の続きです。
10月20日土曜日<5日目>
「軽い風邪」を理由に遊説から戻ったケネディはCIAから準中距離弾道ミサイルR-12が8時間以内に発射可能になると報告を受けた。これを受けてケネディは迷いがなくなり海上封鎖へいよいよ舵を切った。メンバーも海上封鎖でほぼ意見が一致した。だが、いまだに海上封鎖後、ソ連がミサイル撤去に応じなかった場合どのような対応をするかという点で意見が分かれた。メンバーの多くは48~72時間の間にソ連がミサイル撤去を行わなかった場合に空爆することを主張した。一方でマクナマラは最後通牒に反対し、交渉による解決を主張した。グアンタナモ基地の使用期限明確化やジュピターミサイルの撤去を引き換えにミサイル撤去をソ連にさせることによる問題解決を望んだ。
海上封鎖は公式には「隔離」と呼称され、OASによる承認によって法的正当化が行われることとなっていた。その上で攻撃的兵器のキューバへの搬入を阻止することが「隔離」の目的とされた。キューバへの攻撃兵器の持ち込みを行ったソ連側が裏切りこれに対してアメリカは自国の安全保障のためにこれを隔離するというのが筋書きであった。
10月21日日曜日<6日目>
21日ケネディは空軍戦術航空軍団司令官ウォルター・スウィーニー大将と会談を行い、キューバにあるミサイル基地を一度の空爆で撃破することは不可能であると再確認する。
ケネディは家族ぐるみで付き合いのあった駐米イギリス大使ゴア卿と会談。ゴア卿はイギリスの情報網から独自につかんでいたキューバ危機についてケネディに対して質問がなされる。ケネディはフルシチョフの挑戦と海上封鎖について伝えた。これを聞いたゴア卿はケネディの海上封鎖案を支持した。またこの後にイギリス首相ハロルド・マクミランに危機の詳細と海上封鎖について伝達が行われた。
10月22日月曜日<7日目>
10月22日目から海上封鎖や大統領演説の準備に入り、関係各署があわただしくなり始める。ケネディは自ら主な新聞社の編集担当者へ情報を演説終了まで漏らさないように直接依頼した。午前中には世界各地の同盟国へ情勢が伝えられた。フランスにはアチソンが飛び説明を行った。フランスの大統領ドゴールは反米的な姿勢で知られていたが、この際にはアメリカを明確に支持した。その他、独首相アデナウアー、西ベルリン市長、カナダ首相、インド首相等々にも事の次第が伝えられた。
テレビ演説の直前にはケネディから連邦議会の有力議員らの前で演説の内容を事前に伝えた。しかしながら、多くの議員は隔離ではなく強固な軍事手段に出るように主張した。ケネディはもし、軍事侵攻をするのであればアメリカへ核ミサイルが発射されない賭けをしなくてはならないと理解を求めた。
ソ連側はアメリカとは対照的にこの時点までかなり楽観的な見方をしていた。アメリカ側はミサイルを発見したうえで黙殺しているかいまだに発見されていないと考えていたのだ。キューバも同様に油断していた。しかし、22日にソ連軍参謀本部情報局(GRU)はアメリカ軍の異常な動きを報告。国家保安委員会(KGB)はホワイトハウスで何か動きがあることを掴んだ。また、夕方に大統領がテレビで放送演説を行うという情報も入ってきた。これを受けてフルシチョフは党中央委員会幹部会を緊急招集した。マリノフスキー国防相はアメリカが攻撃をするのには24時間はかかるであろうとし、ソ連には時間的猶予があることを述べた。一方でフルシチョフは悲観的であり、最終的には核戦争も覚悟していた。幹部会ではケネディがどのような対応をとってくるかという検討がなされたが、ほぼエクスコムと同様の検討が行われていた。結論としてはキューバ周辺において砲火を交える可能性が非常に高いと幹部会のメンバーは結論付けた。ここで問題になったのが現地のプリーエフ司令官に手持ちの戦術核をどのように扱わせるかが問題となった。本国の指示なしで戦略核兵器の使用は厳禁となされたが、戦術核については意見が分かれた。戦術核の使用ができなければ現地での防衛は絶望的であったからである。結局、戦略核兵器の使用厳禁という指令のみプリーエフには送られた。戦術核の使用条件は本国との通信が途絶した場合に許可するという指令が情勢に応じて、送られる手はずになった。通信をアメリカ側に傍受され、核兵器使用の権限が現地に委任されていると露見した場合を恐れたのである。
22日午後にはケネディによるテレビ演説が放映された[1]。内容はキューバに戦略ミサイルが存在しその対応について述べたものであった。第一に海上隔離について、第二にこれ以上の増強を防ぐための軍の動員、第三にキューバからミサイル攻撃がなされた場合ソ連への報復を行うこと、第四にグアンタナモ基地の非常警戒態勢、第五にOASの緊急会議や法的説明、第六に安全保障理事会をこの事件を平和に対する脅威措置として招集要求、最後にフルシチョフに対しての抗議と対話への呼びかけを行った。
10月23日火曜日<8日目>
23日[2]の早朝フルシチョフはケネディとカストロへ親書を送った。ケネディへはあくまでも現地に存在するソ連兵器は防御的性格[3]を持つものであると従来の説明を繰り返した。また。アメリカの行為が国際法上違法であることを抗議した。[4]一方カストロにはソ連が引き下がることはないと約束した。キューバはこれを受けて戦闘警戒態勢と呼ばれる最高レベルの警戒態勢に入った。3日以内に正規軍10万以上と30万の予備役や準軍事組織が動員されるものである。アメリカ側も演説終了と同時にDEFCONを3[5]にまで上げた。核を搭載した戦略爆撃機が核を搭載し上空待機した。[6]また、東側の前面に立つ西ドイツでも軍事的な警戒態勢に入った。しかし、ほかNATO諸国はアメリカの姿勢を支持するものの常にソ連の核ミサイルの脅威から晒されている欧州の態度は若干冷ややかであった。これを機にベルリン危機がおざなりにされることやアメリカの戦争に巻き込まれることを危惧したのである。カナダに至っては一時警戒態勢の引き上げすら拒否した。
アメリカの要請によってOASの会合が行われ、棄権3票除き全会一致でキューバのミサイルを取り除くのにあらゆる措置を認めた決議が可決された。これによって法的正当化の足掛かりをアメリカは得る。安保理では臨時会議が開催されソ連・キューバ大使とアメリカ大使の間で激しい応酬が繰り返された。アメリカ側は「共産主義者による世界支配画策の共犯」とキューバを痛烈に批判した。一方でキューバは「アメリカの海上封鎖は戦争行為である」と反論、ソ連はミサイル存在の事実を否定し[7]海上封鎖は国連憲章違反だと切り返した。ゾーリン連国連大使、ドブルイニン駐米大使など多くのソ連の外交関係者はミサイル配置の事実を本国から知らされていなかった。そのためゾーリン国連大使は安保理においてミサイルの存在を躍起になって否定した。これは後に「YESかNO」と呼ばれるスチーブンソン国連大使と呼ばれる演説を通して詰問された際に致命的な点となった。
海上封鎖においては貨物船を護衛する潜水艦による攻撃、アメリカ海軍や空軍、海軍航空機に対する攻撃をしてきた場合は撃沈することを併せて指示した。これと同時にキューバ上空でのSAMの射程圏内となる低空偵察飛行を許可した。併せてソ連に撃墜されたらそのミサイル基地を爆撃することも決定した。これは後に問題となる。
ケネディの姿勢は当初の好戦的な立場から軟化し始めていた。ミサイルの撤去に対して断固とした意志を見せる必要があると考えていたが、交渉と譲歩についての検討を行う段階に入りつつあると考えたのだ。私的な外交チャンネル[9]を基にソ連側との接触が図られた。内容はミサイルの撤去の要求と達成されない場合にはあらゆる措置をとることとバーターとしてのトルコにおけるジュピターミサイルの言及であった。公のルートとしてフルシチョフから受け取っていた親書に対して返信を行う。アメリカの決意への過小評価が今回の危機引き金となっていることなどソ連を非難する内容であったが、一方で交渉による危機回避についても言及が行われた。
10月24日水曜日<9日目>
24日にはフルシチョフからの親書の返答がホワイトハウスへ届けられた。内容はアメリカの海上封鎖こそ核戦争を誘発しかねない危険な行為であると批判する者であった。また、海上封鎖にソ連は従わない旨が記されていた。
朝のエクスコムの会議においてはR-12,R-14弾道ミサイル基地建設の進行と隠蔽工作が着々と進められていることが確認された。また、3隻のソ連潜水艦が貨物船を護衛していることも確認されていた。
24日午前10時には正式に海上封鎖が効力を発揮した。ケネディは最初の石油タンカーと次に封鎖線に到着した東ドイツ船籍の客船を通過させた。これはフルシチョフを追い詰めて事態をエスカレーションさせないための配慮であった。封鎖の開始時刻になって緊張度は極限に達していたが、20隻のソ連船が引き返すか、海上で停船を行った。これを受けてエクスコムでは一時安堵した雰囲気が流れた。しかしながら弾頭を搭載した一隻は封鎖線をすり抜けて通過していたのである。結局この貨物船は上空でアメリカ軍から監視され続けながらもキューバに到着し、弾頭をキューバに運びこむことに成功した。このように貨物船に対してはかなり寛大な扱いを受けていた。一方で潜水艦はアメリカ海軍が海上封鎖線を実行的なものにするため訓練用の爆雷を投下するなどして封鎖線の突破を許さなかった。
危機が高まりを見せる中で国連事務総長代行ウ・タント[10]は米ソに対して自制を求め精力的に行動をしていた。米ソ両国に対して以下のような提案を行った。
②ソ連の武器輸送を一時停止すること。
③米政府は海上封鎖を一時停止すること。
加えてキューバにおける基地建設を中止することができれば大きな効果が得られるとした。これをフルシチョフは前向きに受け入れたものの、基地建設については触れなかった。一方ケネディは基地建設が中止されれば海上封鎖の停止を行うとして結果的にこの提案は実を結ばなかった。ただ国連仲介の予備交渉は双方同意したことで始まりキューバ危機における直接交渉と並行した解決プランとなっていった。このウ・タントによる提案はフルシチョフが体面を保ちつつ海上における輸送の停止が出来る逃げ道となった。[11]実際にフルシチョフは26日に停船の理由をここに依拠したものであるとしている。このような観点からこの提案は非常に重要なものであった。
10月25日木曜日<10日目>
危機の高まりを受けてフルシチョフは態度を変えつつあった。本来の目的はキューバの防衛のためにミサイルを配置したが、現状ではアメリカによるキューバ侵攻を助長させるものになってしまっているからである。フルシチョフは幹部会にキューバへの不侵攻確約とミサイルの撤去について提案し、概ね賛同を得た。フルシチョフは自身の回想録で以下のように書いている。
「なんとかして事態の熱をさます方途をさぐろうとして、私は政府の他の構成員に次のような提案をした。「同志諸君、今夜はボリショイ劇場へ行こうではないか。わが国の国民ばかりでなく、われわれに注がれている海外の目もそれに気づいて、おそらく気持を静めるだろう。彼らは心の中でこういうだろう。『フルシチョフやほかの指導者たちがこんな時期にオペラに出かけられるくらいなら、少なくとも今夜は枕を高くして眠れるだろう』と。」[12]
安保理では「YESかNO」と呼ばれるスチーブンソン国連大使と呼ばれる演説が行われた。ゾーリンがミサイルがあるかどうかの質問をはぐらかしている中、スチーブンソンは機密であったミサイルの偵察写真を掲示しミサイルの有無を迫った。このような劇的な手法でスチーブンソンはキューバにミサイルが存在することを世界へアピールすることに成功した。一方ソ連は合法的にキューバへのミサイルを配置したのにもかかわらず苦しい立場となった。
10月26日金曜日<11日目>
フルシチョフはKGBやGRUよりキューバ侵攻へ具体的に準備を進めているアメリカ軍の情報やDEFCON2の指令が下っている情報を受け取り最早猶予はないと悟りケネディへミサイル撤去の申し出を書簡にて行った。また私的外交ルートでも同様の提案が行われており、エクスコム側もこの申し出に強い関心を持った。このように危機回避の兆候が見られる一方でキューバにおいてはIL28軽爆撃機やミサイル基地の建設は急速に進んでいた。既に運び込まれた兵器群は未だ脅威として残り続けていたのである。そのためエクスコム内では限定空爆を支持するマクナマラや全面空爆をマコーンや軍部は求めた。[13]
キューバにおいてはキューバ上層部、駐キューバソ連軍は数日以内のアメリカ軍侵攻はほぼ確実なものだと判断していた。そんな状況下でアメリカのU-2偵察機による高高度偵察や低空偵察を受け続けていたカストロは我慢の限界を超えた。U-2に関しては高高度を飛行しているためソ連軍しか撃墜することができなかったが、[14]低空から偵察する航空機に対してはキューバの保持している高射砲や対空機関砲でも攻撃が可能だった。カストロは27日に飛来するアメリカ軍の偵察機に対する攻撃をすると駐キューバソ連軍へ通告した。そのため現地司令官プリーエフはソ連軍上層部へキューバ軍が攻撃を行おうとしていることを報告し弾頭をミサイルに配置することを報告した。
10月27日暗黒の土曜日<12日目>
この日は最も危機が高まり、一歩間違えれば戦争になりかねない状況であった。様々な経路から緊急の情報を入手していたフルシチョフではあるが、アメリカが封鎖5日経ってもキューバ侵攻をしない点を見て譲歩の余地が存在すると感じていた。トルコのジュピターミサイルの撤去まで漕ぎつければ外交的な勝利であると考えたのだ。このような点を踏まえてフルシチョフは前日に送付した書簡とは内容の異なる書簡をケネディへ送った。トルコにおけるミサイルを配置しつつもキューバのミサイルを撤去することについて指摘した。その上でトルコに対してソ連は主権を尊重し、アメリカはミサイルを撤去する。アメリカはキューバの主権を尊重し、ソ連はミサイルを撤去するという提案をした。国連仲介の下での協定を結び果ては核実験禁止の協定についても言及した。この内容は時間的な制約も鑑みてモスクワ放送を経由して公開された。このような動きに付随して現地のプリーエフには本国の許可なしにイリューシン軽爆撃機に核弾頭の搭載を禁止した。
エクスコムはこれを受けて動揺した。先日の書簡においてはミサイルを撤去すると申し出ていたのにも関わらず、交換条件を出してきた。また、放送を通じて通達してきた意味を探った。加えて低空偵察をしていた航空機に対して対空砲火が浴びせられ、ソ連船が封鎖線に近づいていた。このような先日からの行動の変化はタカ派によってフルシチョフが失脚させられてしまい、態度が変化したのではないかと疑念を抱かせた。更に問題となったのはU-2が北極海上空で誤ってソ連の領空を侵犯し、スクランブルを受け辛くも帰還したという事実だった。また、キューバで偵察を行っていたU-2が未帰還となっており後に撃墜されたことが判明した。[15]23日の決定に拠ればアメリカ軍機が撃墜された時点で地対空ミサイルへの空爆は決定されていた。[16]しかし、ケネディは事態がエスカレートすることを恐れて結果的に空爆を行わなかった。
この日のエクスコムの議論は上述したような次々と起こるアクシデントと現状来ているフルシチョフの書簡に対してどのような返答を行うかが主な論点であった。ジュピターミサイルの撤去はNATO諸国や当事者のトルコ自体が強く反対していたため、公にはこれに答えないことが決定された。あえて先日付の26日の書簡に対して返答を行ったのである。内容は国連を仲介・保障措置とした上でのキューバからの攻撃用ミサイル兵器の撤去、取り決めの締結が行われたのちキューバ不侵攻と隔離措置の解除というものであった。しかし、ジュピターミサイルの撤去もする必要があるとケネディは考えていた。上記のような返答を決定した会議の後に少数の側近の身を集めてこのことについての検討を行った。ロバート・ケネディに対してジュピターミサイルの撤去について言及する裁量を与え、大統領書簡を手渡すためにドブルイニン大使と会談することを決定した。これに並行してウ・タントから米ソ両者のミサイル撤去提案を行ってもらうように工作の指示もした。このような形で危機回避への最終ステップを歩もうとしていた。ここで重要になるのが、この時点でケネディは危機回避の手段をエクスコムから自身と少数の側近で図るようになっていたことである。[17]
27日の深夜にロバート・ケネディがドブルイニン大使と会談を行った。会談でロバート・ケネディはU-2撃墜やミサイル基地建設の続行によって事態は深刻さを増し、破綻が起きかねないとドブルイニンへ通達した。このまま翌日までミサイルの撤去が確約されなければ軍事行動に出ざるを得ない旨も伝えた。加えてこの状態を維持し続けることは困難で、軍部がクーデターを起こす可能性すらあるとも伝えた。[18]これに対してドブルイニンはトルコのミサイル撤去がなされる可能性はあるかとロバート・ケネディへ尋ねた。ロバート・ケネディは大統領にジュピターミサイルの撤去の用意はあると回答した。ただし、撤去は4~5か月後になることやこの取引内容を公にすればアメリカは公式に否定し、この話はなかったことになると念を押した。これを聞いたドブルイニンは会談後即時にフルシチョフへ書簡の内容と上記の取引について連絡をした。この段階においてもエクスコムのメンバーは戦争になる公算が高いと感じていた。フルシチョフがタカ派に屈服しないか、ミサイルを撤去するかは未だに不透明だった。
一方フルシチョフはカストロからの書簡を深夜に受け取った。カストロはフルシチョフを激励するつもりで書簡を出したが、内容が核攻撃を求めるものと解釈したフルシチョフは事態が制御できなくなりつつあると考えキューバにおけるミサイル撤去を決意した。
10月28日日曜日<13日目>
この日の朝フルシチョフは27日に出されたケネディからの書簡とU-2撃墜の事実を知った。この情報からフルシチョフは事態がさらに深刻になることを危惧し、これ以上の危機の高まりには耐えられないと感じた。また、ケネディが夕方にテレビ演説向けの準備をしていると知り時間的な猶予も残されていないと知った。正午には幹部会を招集した。幹部会においては現地司令官に万が一アメリカ軍が侵攻した場合の自衛措置を許可することに決定した。次にケネディからの書簡と前日の深夜にロバート・ケネディが非公式に提案をしたジュピターミサイルの撤去の情報からキューバにおけるミサイル撤去を正式に決定した。この決定はモスクワ放送から発表され[19]まもなく世界がソ連のミサイル撤去意思を知った。現地のプリーエフに対してもミサイル基地の解体が下令された。
一方アメリカ側ではミサイル撤去が行われなかった場合への対応が協議されていた。その最中、モスクワ放送からの声明が飛び込んできた。軍部はミサイルの密約を知らずまた、この危機に乗じてカストロの除去を行いたがっていたためあまり歓迎しなかった。しかし、大半の者たちは安堵した。ホワイトハウスはフルシチョフの決断を称える短い声明を発表した。これによって人類は史上の最大の危機を脱した。
カストロは事前に知らされていないこの事実を知り激怒した。アメリカの口約束と引き換えにミサイルを撤去されることに対して強くフルシチョフに抗議した。フルシチョフは時間的な猶予がなかったことを弁明するも、カストロは後にも核攻撃を迫るなどして両国の関係は冷えていくこととなる。
<その後>
一般的にはキューバ危機と呼ばれるのは10月28日時点までで回避されたとされている。しかし、現実としてミサイル自体は残置されていた上海上封鎖も解かれていなかった。カストロは国連による査察に対しても妨害行為をするなど非協力的であった。アメリカ側も本当にソ連が約束を守っているのか、どこかにミサイルを隠匿しているのではないかという疑念が常に付きまとった。そのため何度もキューバ上空から偵察を行っている。これはカストロの怒りの火に油を注ぐことになったが、フルシチョフは現地ソ連軍とカストロに自制をさせ続けている。11月8日にアメリカの国防総省はミサイルの撤去を確認したと公式に表明した。11月11日にはソ連側も完全にミサイルを撤去し終えたと公表した。実際にこの事実を確認するには現地に視察団を派遣する必要があったが、広大なキューバ島をくまなく調査するのは大変な事業であるし、カストロがこれを強固に拒んだ。アメリカの不可侵を全く信用していなかったのである。アメリカとソ連が国連で勝手に決めた査察の条件に対して憤りを感じていたのである。そのためカストロは下記条件を10月29日に要求している。領空侵犯の全面的停止海上封鎖および禁輸措置の解除、体制転覆活動の停止、海賊行為の中止、グアンタナモ米軍基地の返還。しかし、この5項目はキューバにとってアメリカとの関係における重要な項目であったのにも関わらず、アメリカは黙殺しソ連はそれとなく交わし続けてしまい危機の終結に両国は終始していた。カストロは激怒し、国連の査察を妨害すると警告した。これに対してソ連はあの手この手でカストロをなだめて回った。ミコヤン第一副首相がキューバを訪問し説得をした。会談の途中ミコヤンの妻が死去した知らせが入り、非常に仲の良い夫婦関係であったためミコヤンはかなりの衝撃を受けたものの与えられた任務を続行した。これを見ていたカストロは頑なな態度を崩した。カストロは後におしどり夫婦であったミコヤンが妻の死の知らせを聞いて涙を流す姿を見ながらもキューバに残り会談を続けたこの姿勢が配慮に満ちた姿勢であったと回想している。
また、アメリカからの「攻撃的」とされる兵器もミサイル以外の地対空ミサイル、巡航ミサイル、軽爆撃機、これらに付随する通信・電子機器と長大なリストにわたるものであった。これを受けてフルシチョフは憤りをもって応対し、このリストには従わないと表明するもののキューバが独自の行動をとり始め危機が再燃する危険性などを考慮して撤去することとなる。結局11月20日にフルシチョフがリストに則った兵器の撤去に合意し、隔離措置を停止。ようやく危機は収まったのである。
危機年表
<1962年10月16日>1日目
・ケネディの起床を待って接見.CIAの報告をもとにMRBM配備の動かぬ証拠が入手されたと報告
・ケネディ、エクスコムを招集。
・軍部は空爆と海上封鎖を主張、ラスクなどは懸念を示す。ケネディは結果第一段階ミサイルの除去、第二段階全面空爆ないしは第三段階として侵攻するかが選択肢として危機管理計画の立案を下令。
・マクナマラより政治的解決、軍事的解決、その組み合わせの3つが提案される。
・フルシチョフ、米大使と会談
<10月17日>2日目
・スチーブンソン国連大使、ケネディへの書簡において交渉による解決を提案。
・テイラーより空爆による完全なミサイル除去は不可能と報告。
・上記の報告をうけたマクナマラは海上封鎖を支持。空爆は必然的に侵攻を必要とするため。アチソンはキューバへの攻撃がソ連との対決に繋がり、ベルリン危機にも飛び火することを危惧。[20]
・事前警告ありの空爆かなしの空爆かで意見が分裂する。
・ソ連大使館より書簡。
・フルシチョフの書簡、地対地ミサイルはキューバに送らない。
・U-2偵察機よりIRBM発見の報告。
<10月18日>3日目
・エクスコムに対して情報委員会より、18時間以内にキューバのミサイルは発射可能になると通知される。
・テイラーは限定空爆を主張する。
・ケネディ、マクナマラ・ラスクと会談。アチソンからも意見聞く。
・海上封鎖案に対して検討が本格化する。
・ケネディ・マクナマラ、グロムイコ外相と会談。
10月19日<4日目>
・情報委員会よりソ連に関するレポートが提出。
・エクスコム内、海上封鎖でおおむねの方針が固まる。
・国防省記者会見において、キューバにミサイル基地はないと回答。
10月20日<5日目>
・CIAより8時間以内にミサイル基地が稼働状態に入ると報告、アメリカ東部が射程に
レポート内容
①MRBM(R-12)16基が,命令後8時間以内に発射可能
②イリューシン軽爆撃機22機
②ミグ21戦闘機39機
③ミグ15戦闘機62機
④SAMミサイル24基
⑤海岸防衛のための巡航ミサイル基地3カ所
⑥コマール級巡航ミサイル搭載巡視艇3隻
以上が配備完了。
・国家安全保障会議が開催
・警告後、ミサイル基地の撤廃に同意しない場合空爆で方針決定。
・封鎖作戦を軸に外交交渉によるミサイル撤去を目指すことを決定
・新たなMRBM基地発見
・バンディより各主要メディア代表者に概要と22日までの報道自粛を要請
10月21日<6日目>
・空軍戦術航空軍司令官ウォルター・スィーニーとケネディ会談、空爆案の再検討を行う。ウォルターは空爆によるミサイル完全除去は不可能であると通達。
・報道官へ危機の概要が伝達される。
・ケネディ大統領より各種メディアへ情報秘匿について依頼。
・国家安全保障会議の場で隔離作戦の概要がジョージ・アンダーソン提督より説明される。
10月22日<7日目>
・各国首脳へキューバ危機について情報伝達。
・アチソン、仏大統領ドゴールと会談。ドゴールはアメリカの支持を表明。
・フルシチョフ、幹部会緊急招集。
・DEFCON3が宣言。
・グアンタナモ基地から非戦闘要員の一斉引き上げ。
・B52核攻撃部隊、核を搭載待機。
・全世界の米軍戦力DEFCON3状態に。(欧州を除く)
・17名の上下院議員への説明がなされる。多くは賛同するものの、一部から全面空爆と侵攻の要請。
・カストロ、戦闘警戒態勢を指示。これによりキューバ軍は戦闘態勢に入り、予備役招集。野砲と対空砲を沿岸部に配置。
・ラスク、ドブルイニン大使へミサイル配置を抗議。ケネディの放送原稿と親書を手渡す。
・ケネディ放送演説
・放送終了と同時にアメリカ軍、侵攻作戦に向けた動員開始。
・フルシチョフ海上封鎖を激しく非難。ソ連側も第二戦備体制へ移行。
・オレグ・ペンコフスキー大佐モスクワで逮捕。CIAに軍事情報を流していたスパイ。
10月23日<8日目>
・ソ連政府「アメリカの解除封鎖は海賊行為、国際法違反、核戦争に導く挑発行為である。」と声明。
・ケネディ海上封鎖宣言に署名。
・WTO(ワルシャワ条約機構)加盟国にも非常呼集体制。
・キューバ上空にアメリカ空軍機威嚇偵察。
・安保理特別会議開催、米国「キューバ共産主義者とのソ連の共産主義者の世界を危険に陥れる行為」と非難。ソ連・キューバは「アメリカの行為は戦争行為・国際憲章違反であり、ミサイル配置の事実を否定」激しい応酬に。
・ウ・タント国連事務総長代行より米ソに対して自制を求める書簡。
・フルシチョフより書簡。以降双方の首脳による書簡がある種のホットラインを果たす。
・OAS緊急理事会,棄権3票を除いた全会一致で,米提案の海上封鎖決議を承認.ミサイル撤去がなされない場合の米国のキューバ侵攻を支持することで合意。
・ロバート・ケネディ、ドブルイニン駐米ソ連大使と会談。実りある結果にはならず。
10月24日<9日目>
・ソ連によるR-12, R-14ミサイル基地建設の進行や隠ぺい工作が行われていることが確認される。
・10時より正式に海上封鎖が開始。
・封鎖線に到着した石油タンカー東ドイツ船籍の客船が通過。
・ウ・タントより仲介提案。これによりフルシチョフは撤退の糸口をつかむ。
10月25日<10日目>
・スチーブンソン国連大使、ミサイルを否定し続けるゾーリン国連大使に対して機密であった偵察写真を公開し、有名なYESかNOか演説を行う。
・フルシチョフ、幹部会において方針転換の提案承諾を得る。
10月26日<11日目>
・初めてアメリカによる臨検が行われる。
・ミサイル建設が未だに進んでいることが報告される。
・フルシチョフより事実上のミサイル撤去提案を含んだ書簡。
・DEFCON2(準戦時体制)が戦略空軍において発令、アメリカでは史上初めて。
10月27日<12日目>暗黒の土曜日
・トルコのジュピターミサイル撤去を交換条件とした撤去案がフルシチョフより書簡にて提案。
・U-2偵察機が撃墜。
・ソ連領空を誤ってU-2偵察機が侵犯、ソ連防空軍機がスクランブルするも撃墜される前に領空を離脱。
・封鎖線近くのソ連潜水艦に対して被害の内容にアメリカ海軍より爆雷投下。核魚雷搭載していたため、ソ連潜水艦では発射される寸前であった。
・ケネディ、前々日のフルシチョフへ返信。トルコのミサイルバーターにはあえて触れず。
・深夜にロバート・ケネディ、ドブルイニン大使と会談。秘密裏にミサイル撤去について言及。
・カストロよりフルシチョフに対して書簡。
10月28日<13日目>
・フルシチョフ、幹部会でミサイルの撤去を決断。
・モスクワ放送を通じてミサイルの撤去が公表。
・アメリカ政府、フルシチョフの決断を歓迎する旨声明。
参考資料
・「1963年アメリカのソ連との核戦争計画」著服部 一成 白鷗大学論集 第32巻 第2号
・「キューバ共和国憲法-解説と全訳-」著吉田 稔
https://www.waseda.jp/folaw/icl/assets/uploads/2014/05/A04408055-00-0470102311.pdf (最終閲覧2020/08/14)
・「キューバ危機 ミラー・イメージングの罠」著ドン・マントン、デイヴィッド・A・ウェルチ 訳田所昌幸、林晟一 中央公論社 2015年初版
・「フルシチョフ回想録 (1972年)」編ストローブ・タルボット 訳タイムライフブックス編集部 タイムライフインターナショナル 昭和47年2月25日版
・「決定の本質」著グレアム・T・アリソン 訳宮里 中央公論社 昭和55年2月15日4版
・延長された危機,封じられた政治変動 : キューバ・ミサイル危機から中米危機への軌跡 (特集 危機と政治変動) 著小林誠 年報政治学 2013(2), 162-180, 2013木鐸社https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku/64/2/64_2_162/_pdf/-char/ja(最終閲覧2020/08/17)
[1] 全文が下記のサイトで聞ける。https://en.wikipedia.org/wiki/File:John_F_Kennedy_Address_on_the_Buildup_of_Arms_in_Cuba.ogg
[2] アメリカ時間では22日だが便宜上23日としている。
[3] フルシチョフ防御的「性格」と評しているように両者には性格と性能という異なる基準から弾道ミサイルをとらえていることがよくわかる。
[4] ソ連の行為は国際法上問題なく、アメリカの海上封鎖は戦争行為であり国際法的な観点からはソ連に合法性があったと言えよう。ただソ連の「裏切り」行為の方が注目を集め国際世論の同情はアメリカに集まった。
[5] DEFCON(デフコン)とは、国防総省が作成している戦争への軍の準備態勢指針。
DEFCON5(フェイドアウト)平時態勢。
DEFCON4(ダブルテイク)準備態勢。
DEFCON3(ラウンドハウス)高度な準備態勢および非対称戦争。9・11など
DEFCON2(ファーストフェイス)準戦時態勢。史上キューバ危機のみ。
DEFCON1(コックドピストル)国家総力戦態勢。今まで発動されたことはない。
[6] 常時シフト制で上空に待機する。核攻撃で基地が破壊されても報復能力を失わないようにするため。
[7] ソ連大使ワレリアン・ゾーリンはミサイル設置の事実を知らなかった。
[9] ここでは両国にいる情報部員同士やジャーナリスト同士などによる非公式な接触である。
[10] ダグ・ハマーショルドが任期を残して事故死していたため代行となっている。
[11] アメリカの海上封鎖に対して即時停船してしまえば屈服した印象になるが、国連事務総長代行からの要請を受け入れたとなれば面目が立つのである。
[12] 『フルシチョフ回想録』504pより
[13] その他のメンバーは海上封鎖の継続を支持した。
[14] 戦争回避のため現地ソ連軍は発砲厳禁と本国より統制を受けていた。
[15] 撃墜自体は現場の指揮官による判断によるものであった。しかし、指揮官は外交・政治的事情から処罰はされず、むしろキューバから勲章を授与されている。
[16] 本項23日目参照。
[17] ジュピターミサイルの撤去は強硬な反対がエクスコムに存在し、解決の障壁になる可能性があった。
[18] これはフルシチョフ回想録において言及されている内容である。
[19] 書簡のやり取りでは時間的なラグがあるため放送を利用した。
[20] アチソン自体は空爆を支持する強硬派でもあった。