SB2Cヘルダイヴァーー戦艦武蔵・大和を爆撃した急降下爆撃機

 SB2Cヘルダイヴァーは、アメリカのカーチス・ライト社が開発した偵察爆撃機です。この機体は、第二次世界大戦期後半に活躍し、戦艦大和が撃沈された坊ノ岬沖海戦に参加した急降下爆撃機としても知られています。今回は、SB2Cヘルダイヴァーとは、どのような機体だったのかを紹介します。

開発の経緯と機体の特徴

 SB2Cヘルダイヴァーはアメリカのダグラス社が製造したSBDドーントレスの後継機として開発されました。SBDは当時としては画期的な性能を誇っていましたが、翼端の折り畳み機構が搭載されていないなど、様々な欠点がありました。そこで、後継機を開発することとなった訳です。
 SB2Cの原型機は1940年12月に初飛行が行われました。SB2CはSBDよりも、速度や爆弾搭載量、そして機銃も強力なものとなっていました。また、爆弾は胴体下部にある爆弾倉内に収納する形となりました。急降下爆撃から雷撃まで様々な任務をこなすことが出来、生産機数は7000機以上にも及んでいます。
 しかし、SB2Cは現場での評価は芳しくありませんでした。要求性能に応えるために期待は大型になりましたが、空母艦載機として用いられるため、空母のエレベーターに収めなくてはなりません。空母のエレベーターのサイズに合わせるために無理やり、機体の後ろ半分を切り詰めなくてはなりませんでした。加えて、生産性を重視したために、安定性が低く、トラブルが多かったとのことです。
 SB2C-1には多くの改良が加えられました。SB2C-1Cは、主翼の機関銃4挺が20mm機関砲2門へと変更されています。1944年に登場したSB2C-3はより強力なエンジンを搭載しました。続くSB2C-4は、主翼の下に127mmロケット弾8発、もしくは454kg爆弾の搭載が可能で、主翼下の小型ポッド内にレーダーを装備していました。
 SB2Cは海軍だけでなく、陸軍でも運用されました。陸軍は第二次世界大戦勃発直後、本格的な急降下爆撃機を保有していませんでした。そのため、SB2Cを陸軍仕様として調達します。これはA-25シュライクと呼ばれ、900機が発注されました。
 A-25はSB2C-1と基本的には同じ機体です。しかし、陸上で使わない装備は外されていました。着艦フックや主翼の折り畳み機構です。そして、空母と異なり、陸軍航空隊は不整地でも運用される可能性があったために、主輪は大型化されていました。
 A-25はSB2Cの改修が遅れていたために、こちらも実用化が遅れてしまいました。初飛行は1942年9月にずれ込みます。この頃になると、陸軍は急降下爆撃機への興味が薄れていきました。急降下爆撃機に頼らなくても地上攻撃が可能になっていたためです。 急降下爆撃機は目標に出来る限り近付き、引き起こすことで離脱するというものです。急降下の際の空気抵抗は大きく、これに対応する必要がありました。そのため、要求性能は厳しくならざるを得ません。しかし、急降下爆撃に頼らなくても、爆撃を行うことが可能になりました。このため、わざわざ急降下爆撃機に頼らなくても、通常の爆撃機で事足りると考えたためです。結局、A-25は陸軍機としては実戦に参加しませんでした。

SB2Cの戦績

 SB2C-1は不具合のために、練習機として運用されたため、本格的に運用されたのはSB2C-1を改良したC型でした。C型は1943年11月から実戦に投入されます。戦時中も改良が行われ、1944年には新型エンジンへと換装されたSB2C-3が配備されました。SB2CはSBDに代わって部隊への配備が進められ、日本を相手に戦うことになります。空母艦載機として、マリアナ沖海戦などの海戦で活躍しただけでなく、空母を発進して、台湾、硫黄島、沖縄、日本本土空襲で活躍しました。
 SB2Cの大きな戦果として挙げられるのが、戦艦武蔵が撃沈されたレイテ沖海戦と戦艦大和が撃沈された坊ノ岬沖海戦です。これらの海戦で撃沈の引き金となったのは魚雷の命中でしたが、SB2Cは急降下爆撃機として、武蔵や大和の甲板上の構造物、火砲や対空砲を攻撃し、徐々に対空防御力を奪っていきました。SB2Cの爆撃は両艦を沈没させた直接の原因となったわけではありませんが、撃沈に寄与したことは間違いないでしょう。

戦後の活躍

 SB2Cは、太平洋戦争終結まで活躍し、1947年まではアメリカ海軍で運用され続けていました。現役を引退した後も、海軍予備飛行部隊で1950年まで運用され続けていました。
 大戦の終結やアメリカ軍部隊からの退役に伴って多くの余剰航空機が発生していました。これらの機体は、フランス、イタリア、ギリシャ、ポルトガル、そしてタイへと売却されます。
 海外に供与された機体は第二次世界大戦が終結した後も活躍し続けます。ギリシャに供与された機体は、ギリシャ内戦で運用されました。ギリシャに供与されたSB2C-5は対ゲリラ戦用の軽攻撃機の一種であるCOIN機のような改造が加えられます。ゲリラ戦を想定し、空対空戦闘は想定されていなかったために、後部銃座などは外され、代わりに翼に関銃を内蔵したポッドが取り付けられました。
 フランスに供与された機体は、1951年から1954年までの第1次インドシナ戦争において運用されます。こちらでも、ベトミンを想定し、対ゲリラ戦に投入されていきました。急降下爆撃機から、COIN機へと生まれ変わった訳です。


主要参考資料
パレット・ティルマン、苅田重賀訳『太平洋戦争のSB2Cヘルダイヴァー部隊と戦歴 (オスプレイ軍用機シリーズ)』大日本絵画、2004年。

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