ディエップ上陸作戦(ジュビリー作戦・ディエップの戦い)

 ディエップ上陸作戦は、1942年8月19日に連合軍がフランスに行った奇襲上陸作戦のことです。本格的なヨーロッパ反攻作戦であるノルマンディー上陸作戦以前に行われたこの作戦は、ヨーロッパ反攻の前哨戦とも目されています。しかし、杜撰な作戦だったがゆえに連合軍は大損害を受け、作戦は失敗に終わりました。ここでは、ディエップ上陸作戦とはいったい何だったのかを振り返ります。


作戦目的は何だったのか?

 1942年8月19日に行われたディエップ上陸作戦はディエップの戦いとも称されますが、正式名称はジュビリー作戦と言います。ここでは、ディエップ上陸作戦として話を進めていきます。
 1942年8月は、西部戦線は膠着状態にありましたが、東部戦線ではドイツ軍が進撃を重ねており、スターリングラードへと迫ろうとしていました。ディエップ上陸作戦の4日後にスターリングラードの戦いが開始されます。一方、北アフリカ戦線では6月30日にロンメル将軍率いるドイツ・イタリア軍がエジプトの重要都市アレクサンドリアから西方約100kmのエル・アラメインに到達しましたが、進撃が停止しました。
 この後、東部戦線ではスターリングラードの戦いが始まり、北アフリカ戦線ではエル・アラメインの戦いでイギリス軍が勝利をおさめます。しかし、ディエップ上陸作戦の行われた段階ではまだドイツ軍が優勢という状況でした。
 こうした中で行われた作戦ですが、実は、作戦目的ははっきりとはしていません。作戦自体、防御が薄い北フランスのディエップに上陸し、攻撃後6時間で撤退するというものでした。その後行われたノルマンディー上陸作戦やシチリア上陸作戦のような恒久的な橋頭堡の確保は考えられていませんでした。  作戦目的には様々な説があります。ヨーロッパ反攻作戦に向けての演習、レーダーサイトの機材強奪、第二戦線構築を要求するソ連への配慮などです。しかし、先程も紹介したように、イギリスなどはまだダンケルクの痛手から立ち直っておらず、参戦したアメリカも本格的な派兵には至っていない状況でした。この段階ではまだ大規模なヨーロッパ反攻は不可能だったのです。


杜撰な作戦

 作戦目的がはっきりしないということで、作戦自体も杜撰なものでした。作戦は1942年7月4日に以降の好天の日を選んで決行されることになっていました。ディエップはイギリス本土から戦闘機や爆撃機などの航空支援を受けることが可能な地点であり、そのためにも好天は不可欠だったのです。
 悪天候が続いたため、作戦を担当する南東軍司令官のバーナード・モントゴメリー将軍は奇襲作戦の意義がなくなるとして、中止する意向を示していました。しかし、作戦の指揮官であるルイス・マウントバッテン提督が決行を主張したために、攻撃は8月に決行されることになります。ちなみにモントゴメリーは作戦決行の前日に北アフリカ戦線を担当する第8軍の司令官に任命されました。
 しかし、攻撃の援護は次々と見送られていきます。当初はイギリス空軍によって、爆撃が行われる予定でしたが、民間人への被害が懸念され、中止となります。空挺部隊の海岸砲台制圧は天候が不安定ということで中止され、コマンド部隊がその任務を行うことになりました。また、上陸作戦を支援するはずだったイギリス海軍も駆逐艦以上の大型艦はイギリス海峡に入らないという方針を堅持しており、艦砲射撃の支援も不十分となることが予想されています。
 しかも、奇襲だったはずなのに作戦内容があろうことかドイツ側に漏れてしまいました。作戦決行2日前にイギリス軍の高級将校が、パーティーの席上で作戦の内容を口外してしまいます。この情報はドイツの諜報機関に知られ、本国にも伝わります。ドイツは上陸作戦に備え、防備を固め、上陸部隊を待ち構えることになりました。


敗退

 1942年8月19日早朝、カナダ・アメリカ・イギリスの部隊が作戦を開始しました。作戦に参加した兵員数は6,086人、カナダ第2歩兵師団が5000人とアメリカ軍1000人そしてイギリス軍です。
 上陸地点は切り立った崖であり、自然の防備体制が出来ているような状況でした。しかも、既に情報を得ていたドイツ軍は迎撃準備を整えていました。ドイツ軍は連合軍を待ち構え、至近距離まで引き付けた後で、攻撃の火蓋を切ります。
 待ち構えていたドイツ軍の強力な砲火にさらされ、連合軍は大混乱に陥りました。しかも、上陸自体も失敗に終わります。揚陸したチャーチル歩兵戦車はコンクリート製の防壁で行動不能になるものが相次ぎました。支援の艦砲射撃は友軍への攻撃を行ってしまう始末で味方の損害を増やします。加えて、ドイツ空軍の反撃を受け、連合軍の空軍や海軍は損害を受ける有様でした。
 結局、上陸部隊は3,894人の損害を出し、撤退します。ドイツ軍の損害は59人でした。この作戦を指揮したルイス・マウントバッテン提督は「ディエップでひとりが戦死したために、Dデーでは10人が助かった」と回想していますが、そう主張するには作戦自体杜撰であり、大きな犠牲だったと言えるでしょう。




主要参考文献
『丸』エキストラ版第96号(潮書房、1984年)。
チャールズ・メッセンジャー、鈴木主税、浅岡政子訳『ノルマンディー上陸作戦』(河出書房新社、2005年)。

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