SDBドーントレスは、太平等戦争の初期から1944年まで、アメリカ海軍とアメリカ海兵隊の主力爆撃機として活躍した機体です。この時期は急降下爆撃という戦法が一番輝いた期間と重なり、SDBドーントレスも歴史に名を残す大戦果を挙げています。 この記事では、SDBドーントレスの活躍と急降下爆撃の栄枯盛衰について解説します。
SDBドーントレスの戦歴と急降下爆撃
SDBドーントレスといえば急降下爆撃をイメージするのは、ミッドウェー海戦における武勲の印象がアメリカのみならず、日本にも強烈な印象を残したからでしょう。
まずはSDBドーントレスの登場と戦歴を追いながら、画期的な戦法だった急降下爆撃についても説明します。
ノースロップBTの後継機として開発
SDBドーントレスの原型はノースロップBTで、当初はその改良型としてノースロップ社が開発を命じられました。BTは最初から急降下爆撃を前提とした機体で、その改良型はXBT-2という名称で開発が進められましたが、ノースロップ社がグラマン社に吸収されたため、グラマン社が開発を引継ぎXSBD-1に名称が変更されています。
初飛行前の1939年4月には、アメリカ海軍から海兵隊用のSDB-1を57機と、海軍用のSDB-2を87機が発注されました。SDBという機体名は、偵察爆撃機を意味する「Scout Bomber」と、ダグラス社(Douglas)の頭文字から名づけられ、愛称のドーントレス(dauntless)は、「不屈の、勇敢な、びくともしない」という意味を表す形容詞です。
SDBドーントレスの特徴
SDBの機体形状は、低翼配置の主翼に同時期のアメリカ海軍機としてはスリムで、非常にオーソドックスなものです。速度調整のためのダイブブレーキを兼ねる穴あきのフラップが大きな特徴となります。
設計当初から引き込み脚を採用するなどの先進性があった一方で、主翼に折畳み機構がないなど、艦上爆撃機としては過渡期の機体でもありました。
1941年3月からは、エンジン出力を向上させ武装や防弾性能を強化したSDB-3の納入も始まり、太平洋戦争開戦時には584機すべて納品されています。
最終的には1350馬力のエンジンを搭載したSDB-6まで改良され、総生産数は5,936機となりました。
ミッドウェー海戦での伝説的大戦果
アメリカ海軍所属のSDBドーントレスは、1942年5月の珊瑚海海戦で初陣を飾りました。しかしその名を高めたのは、1942年6月に行われたミッドウェー海戦での大戦果です。
マクラスキー少佐が率いた空母エンタープライズのSDB爆撃隊が、日本機動部隊を急襲し空母加賀と赤城を沈没に至らせることに成功ました。これには幸運も影響したのですが、それは上空での集合に手間取った結果、戦闘機隊や攻撃(雷撃)機隊より遅れて戦場に到着したことです。
その結果、先行して日本艦隊に攻撃を仕掛けたアメリカ航空隊が、日本の護衛機や艦上監視員の注意を低空にひきつけ、ほとんど気付かれないまま急降下爆撃することができました。
いっぽう囮のようなかたちになったTBD艦上攻撃機は、41機中帰還できたのは3機だけという犠牲をはらったのです。
なお日本海軍の残り2隻の空母蒼龍と飛龍は、ヨークタウンを発進したSDBドーントレスによって撃沈されました。
なぜ急降下爆撃は効果的だったのか
急降下爆撃が発明される前までの爆撃は、水平爆撃しか存在せず投下高度にもよりますが、命中率が低いのが難点でした。動いている艦船相手ではさらに難易度が上がります。
これの解決策としてアメリカ軍で考えられたのが急降下爆撃で、急降下する爆撃機の進行方向に爆弾を投下するという戦法です。飛行機と爆弾のベクトルがほぼ一致するので、命中精度が飛躍的に高まります。
いっぽうで爆弾の貫通力では水平爆撃に劣りますが、ミッドウェー海戦では防御力の脆弱な空母が相手で、しかも燃料や爆弾などの誘爆を発生させるなど、極限まで急降下爆撃の効果が発揮される条件が整ったといえます。
後継機の登場とその後のSDBドーントレス
SDBドーントレスがミッドウェー海戦で大戦果を収めたころ、すでに後継の艦上爆撃機の開発・生産が始まっていました。カーチス・ライト社のCB2Sヘルダイヴァーです。
SDBより速度が速く、爆弾の積載量も多く、航続距離の長いCB2Sの運用は1943年11月から始まり、主力艦上爆撃機の地位をSDBから奪いました。
しかしSDBドーントレスには、別の役目が与えられることになります。SDB-4以降の機体には、電波航法装置や空中レーダーが装備され、早期警戒機として終戦まで現役を続けたのです。
急降下爆撃の全盛期と衰退
急降下爆撃という戦法を発明したのはアメリカ陸軍航空隊だといわれ、影響を受けた各国でも研究と急降下爆撃に耐えうる機体の開発が進められました。
第二次世界大戦では艦隊戦だけではなく、陸上戦の航空支援でも絶大な威力を発揮した急降下爆撃ですが、戦後には急に廃れてしまいました。
ここからは全盛期が10年にも満たなかった急降下爆撃の栄枯盛衰を見ていきましょう。]
ユンカースJu87スツーカの活躍
アメリカで発明された急降下爆撃に注目した人物に、第一次世界大戦でドイツ軍のエースパイロットだったエルンスト・ウーデットがいます。後に航空省技術局長となったウーデットの後押しで完成したのが、ユンカースJu87スツーカです。
スペイン内戦で試験運用され効果を証明すると、第二次世界大戦の中期までは絶大な対地戦能力をみせ、急降下爆撃の有効性を見せつけました。 ただ大戦の後期になりドイツ軍が制空権を失うと、鈍足で運動性能も防弾性能も低いJu87は無力化され、これが急降下爆撃機のデメリットの一部だといえるでしょう。
SDBドーントレスの系譜
SDBドーントレスの後継機は、CB2Sヘルダイヴァーとなり終戦まで主力艦上爆撃機として活躍しました。マリアナ沖海戦以降の主要な戦闘で戦果をあげ続け、戦艦大和や武蔵の撃沈にも一役買っています。
1946年12月から配備が開始された「最後のレシプロ艦上爆撃機」A-1スカイレイダーは、ダグラス社の設計・開発で、開発時のコード名称は「VBT2DドーントレスⅡ」でした。
日本海軍の急降下爆撃
太平洋戦争の初期の日本海軍も、急降下爆撃で大きな戦果をあげました。九九式艦上爆撃機が主力をつとめ、真珠湾攻撃やセイロン沖海戦で高い命中率を残し、序盤の快進撃の一翼を担ったのです。
しかしミッドウェー海戦を境に、状況は変わっていきました。日本の急降下爆撃は、戦闘機に続き単縦陣形で攻撃を敢行する方法をとっていたので、攻撃の柔軟性が高い代わりに対空砲火に弱いというデメリットもありました。
また制空権を失うと、単なる的のようになるケースも多く、被害は増え続けたのです。パイロットも後継機の数も揃わず、日本の急降下爆撃に輝きが戻ることはありませんでした。
急降下爆撃の終焉
第二次世界大戦が終わると、急降下爆撃の有効性と必要性は急激に失われていきました。レーダーや対空兵器の進化によって目標への接近が困難になり、攻撃手段もミサイルや誘導爆弾の進化で近接攻撃の必要性がなくなったのです。
アメリカ海軍でも、SDBドーントレスの後継機CB2Sヘルダイヴァーが最後の急降下爆撃機で、以後の攻撃機方法から急降下爆撃は消えてしまいました。
まとめ
SDBドーントレスは、急降下爆撃の全盛期に活躍し最高の戦果を残した、ある意味で急降下爆撃の申し子といえる名機です。ミッドウェー海戦で日本機動部隊の空母4隻を撃沈し、戦局を変えた立役者で、日米両国に強い印象を残しました。
急降下爆撃機としての実働期間は長くありませんでしたが、その強い印象からSDBドーントレスは急降下爆撃の代名詞の存在になったのです。
主要参考資料
・世界の傑作機No198「SDBドーントレス」