TBDデヴァステイターは、太平洋戦争開戦時におけるアメリカ海軍の主力雷撃機です。その活動期間は非常に短く、かつミッドウェー海戦では味方の急降下爆撃機ドーントレスの引き立て役になってしまう不遇の機体となりました。
この記事では、開戦時が不幸すぎたTBDデヴァステイターについて解説します。
雷撃機の過渡期に開発されたTBDデヴァステイター
TBDデヴァステイターの開発が始まったのは1934年で、同時期に建造が始まっていたヨークタウン級航空母艦に搭載するための雷撃機としてダグラス社に依頼されました。
魚雷を用いた艦上機による対艦攻撃は、第一次世界大戦においても試験的に実施され多少の戦果があったのですが、本格的に研究・開発が進んだのは二つの世界大戦の間のことです。
TBDデヴァステイターは、まさにそのような時期に開発された機体でした。
航空攻撃における雷撃の利点と欠点
航空機による雷撃の最初の例は、第一次世界大戦中の1915年8月にイギリス軍水上機によるトルコ軍補給艦撃沈だと言われています。その後も何度か雷撃が試みられ戦果も見られましたが、当時の航空機技術では重い魚雷を運ぶことすら困難なことでした。しかし雷撃による対艦攻撃で敵艦に与える大きなダメージは極めて魅力的で、第一次世界大戦後に研究が進められます。
魚雷による攻撃で最大のメリットは、敵艦の喫水線下に大きなダメージを与えられることで、浸水を引き起こすことで沈没や転覆を期待できることです。当時は急降下爆撃機も研究段階だったので、一般的だった水平爆撃より命中率が高い点もポイントでした。
一方でこのころの航空魚雷の性能では、かなり低空から低速度で魚雷を投下する必要があり、また命中させるために敵艦へ接近しなければならないので、対空砲火や直営機によって撃墜される可能性が高いことは大きなデメリットとなります。
しかし日米英を中心とした海軍国では、雷撃機と航空魚雷の研究・開発が進められていきました。
TBDデヴァステイターの開発
1934年に開発が始まったTBDデヴァステイターは、最初から大型空母での運用を前提とした機体で、これも同時期に開発が進んでいた航空魚雷「Mk13」を搭載する雷撃機として設計されました。
1935年には初飛行し、1937年から生産を開始されたのですが、その2年後の1939年に日本海軍が九七式艦上攻撃機を採用したことで見劣りしてしまい、後継機(TBFアベンジャー)の開発がスタートしてしまいます。このためTBDデヴァステイターの生産数は129機に留まりました。
数々の「アメリカ軍初」をもつ先進機
TBDデヴァステイターは、当時としてはかなり先進的な設計がなされており、いくつかの点で「アメリカ軍初」という称号を持っています。
軍用機の過渡期らしい特徴かもしれませんが、「初の単葉機」であり「初の全金属製機」でした。これは空母の大型化とも関連します。甲板が大きくなれば重い単葉機であっても発艦に支障がないからで、逆に海が荒れる大西洋での使用を前提としたイギリス海軍が、第二次世界大戦中に複葉機で非金属製のソードフィッシュが現役を続けたのと対照的です。
また「初めての引込脚」で「初めて操縦席がキャノピーで完全に覆われた」のもTBDデヴァステイターでした。
開戦時に時代遅れTBDと致命的だった魚雷の低性能
TBDデヴァステイターは、日本の九七式艦上攻撃機の登場によって陳腐化したと言われますが、実際に最高速度300km/hは見劣りしたのは事実です。また短すぎる航続距離も運用上問題視されていました。
しかしTBDデヴァステイターより深刻だったのは、当時アメリカ海軍が採用していた航空魚雷「Mk13」の低性能ぶりです。太平洋戦争開戦時の日米の兵器を見渡すと、航空魚雷の分野が一番日本の優位だった分野かもしれません。
日本の九一式魚雷は、開戦直前の1941年に角加速度制御装置を加えられた、今で言うところの「ハイテク兵器」でした。200mの高度からでも、速度300km/hであっても投下でき、荒れた海でも敵艦を狙える高性能ぶりだったのです。
ところがアメリカ軍のMk13魚雷は、高度15m以下で速度も200km/h以下でなければ使用できないうえ、その条件を満たしていても走行しないなど、問題だらけの魚雷でした。実際Mk13は、ミッドウェー海戦以後に改良を指示され、1944年6月まで使用されなくなっています。
太平洋戦争開戦とTBDデヴァステイター
1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃から始まった太平洋戦争は、その戦火から航空機による対艦攻撃の有効性を世界に知らしめました。
幸い無傷ですんだアメリカ海軍空母部隊の主力雷撃機として、TBDデヴァステイターは日本機動部隊と激突することになります。
珊瑚海海戦で史上初の空母撃沈
開戦翌年の1942年5月、ポートモレスビー(現在のパプアニューギニアの首都)攻略を目指す日本軍部隊と、暗号解読によってこれを待ち受けるアメリカ艦隊とのあいだで、戦史上初めての空母同士の海戦が起きます(珊瑚海海戦)。
5月7日、空母レキシントンの攻撃隊に発見された空母翔鳳は、最初のドーントレスの爆撃は交わしたものの、次に飛来したレキシントンのTBDデヴァステイターと、ヨークタウンのドーントレスの集中攻撃を受けました。
13,000tの小型空母に、TBDデヴァステイターは7本の魚雷を命中させ、ドーントレスのも13発の爆弾を命中させて、14~15分あまりで撃沈に成功します。史上初めて撃沈された空母です。
TBDデヴァステイターが太平洋戦争で唯一輝きを放った瞬間でした。
間接的に勝利に貢献したミッドウェー海戦
1942年6月、太平洋戦争の転換点になったミッドウェー海戦が行われました。日本機動部隊を発見した第16任務部隊司令官スプルーアンス少将は、先手を取ることを最優先とし準備の整った航空機から順次発艦させ日本艦隊に向かわせたのですが、これがTBDデヴァステイターの悲劇と、全体としての勝利を生んだのです。
雷撃機隊や爆撃機隊がバラバラで索敵しながら進んだ結果、不幸にして(アメリカ軍にとっては幸運)TBDデヴァステイターの雷撃隊が最初に日本機動部隊に突入することとなりました。ホーネットはら15機、エンタープライズから14機、ヨークタウンから12機で、計41機のTBDデヴァステイターが順次攻撃を敢行したのですが、艦隊を守る零式艦上戦闘機にことごとく葬られました。
41機のうち無事帰還できたのは3機だけという、全滅といって差し支えのないものです。しかし低空で攻撃を続けたことで零戦隊を引き付けた結果、日本機動部隊の高高度の空はがら空きとなりました。
その隙をついたSBDドーントレスの急降下爆撃によって、日本機動部隊の赤城、加賀、蒼龍を一気に壊滅させ、生き残った飛龍もその数時間後には無力化に成功しました。SBDドーントレスの大戦果の陰には、TBDデヴァステイターとその搭乗員の献身的な犠牲があったのです。
後継機へバトンタッチ
ミッドウェー海戦で壊滅的な被害を受けたTBDデヴァステイター、以後TBFアベンジャーに切り替えられていき、1942年10月の南太平洋海戦時には太平洋戦線の第一線からは退いています。
後継のTBFアベンジャーにしても、Mk13魚雷の改修が終わる1944年6月までは爆撃機として投入され、雷撃機としての活動はそれ以降終戦までとねりました。
まとめ
太平洋戦争において第一線での活躍期間が短いうえ、ミッドウェー海戦ではほとんどが零式艦上戦闘機の餌食になったことから、一部では「残念な失敗機」というレッテルを貼られているTBDデヴァステイターです。
しかしアメリカ海軍の雷撃機隊の歴史を紐解くと、TBDデヴァステイターという雷撃機の問題より、Mk13という魚雷の問題の方が根深いものがあります。つまり見方を少し変えればTBDデヴァステイターは「巡り合わせが悪く、兵装にも恵まれなかった不運な機体」ということができるでしょう。
主要参考資料
「太平洋戦争のTBDデヴァステイター部隊と戦歴」 ・・・ バレット・ティルマン
「ミッドウェー海戦 第二部 運命の日」 ・・・ 森史郎
「航空魚雷ノート」 ・・・ 九一会編