アメリカ海軍のF6Fヘルキャット艦上戦闘機は、そのずんぐりとした見た目や戦場に現れたのが1943年(昭和18年)8月という、すでに日本軍が落ち目になりつつあった時期だったことから、一部で実力について誤解を受けているようです。 つまり性能はそれほど高くはないが、物量と重装甲で零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を押し切ったような話がそれにあたります。無理からぬ部分もあるのですが、改めてF6Fヘルキャット登場の流れと、幸運にも恵まれた現役時代の実力に焦点を当てます。
F6Fヘルキャットの開発経緯と幸運
F6Fヘルキャットは、太平洋戦争の中盤以降にアメリカ海軍の艦上戦闘機として活躍した機体ですが、開発経緯を見ていくと決して期待が大きいわけではなかったことが分かります。
しかしF6Fは艦上戦闘機として正式採用されるまでの過程で幸運に恵まれ、活躍の場が与えられることになりました。まずはF6Fの開発から、アメリカ海軍の艦上戦闘機としてゼロ戦の前に立ちはだかるまでを追ってみましょう。
F4Fワイルドキャットの後継機
F6Fヘルキャットは、太平洋戦争開戦当初アメリカ海軍の主力戦闘機だったF4Fワイルドキャットの後継機種として、1938年にグラマン社で開発がスタートしました。
アメリカ海軍からの要求で、次期型艦上戦闘機の開発を行っていたのはグラマン社以外にもチャンス・ヴォート社がありました。同社では後にF4Uコルセアとして採用された機体を開発しており、2000馬力級のエンジン(R-2800)を搭載した試作機を開発していました。
F4Uコルセアの保険的開発だったF6F
F6Fヘルキャットの開発はF4Uコルセアと違い、1600馬力級エンジン(R-2600)と、R-2800の両方で試作が進められました。
これにはわけがあり、プラット・アンド・ホイットニーのR-2800(18気筒)エンジンの搭載が失敗した場合にそなえ、実績のあるライトR-2600(14気筒)を搭載するF6Fを保険的な意味合いで開発させていたのです。また機体自体もF4Fを正常進化させたような堅実な設計だったことも理由のひとつでした。
しかしコルセアの開発で苦労を重ねたかいがあり、R-2800の信頼性が確立したことから、最終的にF6Fにも2000馬力級のR-2800が採用されることになりました。
カラブリア沖海戦
フランスの敗戦によりイタリア海軍の敵はイギリス海軍となりました。しかし質でも量でも劣るイタリア海軍は主力艦隊による決戦は避け続けていました。そのなかで偶発的にイタリア海軍とイギリス海軍の海戦に至ったのが「カラブリア沖海戦(イタリアではプンタ・スティーロ海戦)」です。
イタリア第一艦隊及び第二艦隊は、リビアのベンガジへ向かった5隻の輸送船の護衛任務を終え、タラント軍港への帰途でイギリス海軍とオーストラリア海軍の連合国艦隊と遭遇しました。連合国艦隊もマルタからアレクサンドリアへ向かう船団の護衛だったため、双方が意図しない海戦だったのです。
カンブリア沖海戦では、イタリア海軍も連合国艦隊も決定的に戦果を挙げることができなかったのですが、ベンガジへの護送任務を終連合国艦隊のマルタ島到達を阻止した点では、イタリア海軍の戦略的勝利ともいえます。
ムッソリーニは「イギリス艦隊を撃退した一大勝利」と称える一方で、イギリス側も勝利を確信して宣伝戦に力を入れました。しかし重要だったのは、このカラブリア沖海戦と7月19日のスパダ岬沖海戦で、イタリアの海軍と空軍の連携の悪さが露呈したことで、この後にイギリス海軍の行動は大胆さを増していくことになります。
奇をてらわない堅実堅牢な機体
F6Fヘルキャットは、新規設計の機体だったのですが新技術など盛り込まない、堅実性優先の設計となっていて、強固で堅牢な機体構造から「グラマン鉄工所」と呼ばれたF4Fワイルドキャットの長所を強化した機体となりました。
エンジンがR-2800に換装されたことによるエンジン出力の余裕は、防弾フロントガラスや装甲の強化に振り向けられ、運動性を損なうことなくF4F以上の防御性能を獲得したのです。
F4Fと似た骨太の機体ですが、見た目の印象より運動性能は良好で、後にゼロ戦の好敵手と呼ばれるにふさわしい実力を備えていました。
太平洋戦争開戦時に試作機も完成していなかったF6Fヘルキャットですが、開戦1か月後には千機以上の量産契約が結ばれています。R-2800を搭載した機体の初飛行は、ミッドウェー海戦の翌月1942年7月30日でした。
コルセアより先に艦上戦闘機へ採用
アメリカ海軍にとって本来艦上戦闘機の本命だったF4Uコルセアは、F6Fヘルキャットよりはるかに早い1940年5月に初飛行を行っていました。性能もコルセアの方が上回っていたのですが、艦上戦闘機としては多くの難点を抱えていました。
長い機種による視界不良は空母への着艦に支障をきたし、またR-2800エンジンのトラブルが多かったため、1942年末の段階で艦上戦闘機としては不適と判断され、その座をF6Fヘルキャットへ譲ることになったのです。
ゼロ戦の最大のライバルとなり得た高性能と幸運
F6Fヘルキャットの実践デビューは1943年8月31日のマーカス島(小笠原諸島南鳥島)空襲で、11月にはラバウル上空でゼロ戦と戦火を交えます。
艦上戦闘機として空母部隊に投入されたF6Fヘルキャットは、日本の空母航空隊と対峙することになりましたが、ここでも幸運に恵まれました。
コルセアの犠牲による信頼性の向上
F6Fヘルキャットより早い1943年2月14日に実践投入されたF4Uコルセアですが、初戦で2機が撃墜される結果となりました。その後高い機体性能を持っていたものの、エンジン回りのトラブルが多い点がアメリカ軍を悩ませます。
点火装置の不具合から高高度でエンジンが停止する問題や、エンジンからのオイル漏れ、燃料漏れなどで、実践の中で改良を重ねる必要に迫られました。一方で同じエンジンながら実践投入が遅くなったF6Fヘルキャットには、コルセアの不具合と改良がフィードバックされたため、R-2800エンジンの初期不良をほぼ解決してから配備されました。
つまりコルセアが実験台となって、F6Fヘルキャットの信頼性を高めたといえます。
ラバウルで消耗していった日本艦隊航空戦力
太平洋戦争中期のガダルカナル島やソロモン諸島をめぐる日米の戦いで、日本のラバウル航空隊の活躍は有名ですが、1943年以降は空母部隊の航空戦力も投入していました。
この日本航空戦力と真っ向戦ったのは主にF4Uコルセアで、多くの戦果とともに多くの被害を被っています。この航空戦によって日本空母の艦載機搭乗員は消耗が激しく、海上航空戦力を実質的に失ったに等しいものでした。
つまりF6Fヘルキャットが空母艦載機として対峙することになった日本海軍航空隊は、太平洋戦争初期に無敵を誇ったものとは全く違う、練度も低いものとなっていたのです。
相対的にヘルキャットの戦闘力は高いものとなり、太平洋戦争に投入されたアメリカ軍機のなかでも突出した戦果を挙げていくことになりました。
急に訪れたF6Fヘルキャットの引退
太平洋戦争の後半に日本軍航空機を追いつめていったF6Fヘルキャットですが、戦争末期に第一線から外れることになります。それまで艦上戦闘機としては不適格とされていたF4Uコルセアが、空母運用能力を強化してようやく主役の座に就いたからです。
1945年12月から本格的に置き換えがはじまり、終戦後は退役が加速しました。15年ものあいだ第一線で戦ったゼロ戦に対し、わずか2年ほどの戦歴でした。これだけ運用期間に差がありながらゼロ戦の10,430機を上回る12,275機という総生産数を見ると、絶望的なまでの経済力の差を痛感します
まとめ
F6Fヘルキャットの開発から退役までの流れを見ていくと、最初から日本軍相手に大戦果を挙げる結果が決まっていたストーリーのようにも見えてしまいます。
しかし考えようによっては、戦場で一番重要な信頼性をなにより重視したその設計が、活躍できるような運を自ら手繰り寄せたともいえるでしょう。
主要参考資料
「世界の傑作機No.71グラマンF6Fヘルキャット」
「世界の傑作機スペシャル・エディションVol5ヴィートF4Uコルセア」
「零式艦上戦闘機 永遠の名戦闘機ゼロファイターの全貌」・・・丸編集部