★セイロン沖海戦 日英両軍の主な参加戦力
●日本海軍 南雲機動部隊 (司令官:南雲忠一中将)
空母 「赤城」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」
戦艦 「金剛」「榛名」「霧島」「比叡」
重巡 「利根」「筑摩」
軽巡 「阿武隈」
駆逐艦11隻、特設給油艦9隻
●イギリス海軍 東洋艦隊 (司令官:サー・ジェームズ・ソマヴィル中将)
・A部隊(Aフォース):高速艦隊
空母「インドミタブル」「フォーミダブル」
戦艦「ウォースパイト」
重巡「コーンウォール」「ドーセットシャー」
軽巡「エメラルド」「エンタープライズ」
駆逐艦6隻
・B部隊(Bフォース):低速艦隊
空母「ハーミーズ」
戦艦「ロイヤルソブリン」「リベンジ」「ラミリーズ」「レゾリューション」
軽巡「カレドン」「ドラゴン」「ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク」
駆逐艦8隻
★コロンボ空襲
4月5日、南雲機動部隊は英海軍の拠点の1つであるセイロン島南西部のコロンボに対する空襲を実施しました。午前9時、日が昇る前に淵田美津雄中佐率いる零戦36機・九九艦爆38機・九七艦攻54機の計128機による第一次攻撃隊が5隻の空母から出撃します。10時45分からコロンボへの空襲が開始され、迎撃にやってきた英軍戦闘機との間で激しい空戦が展開されました。ここでは日本の零戦隊が圧倒的な強さを発揮しており、わずか30分ほどの空戦で英軍のハリケーンとフルマー戦闘機およびソードフィッシュを30機近く撃墜しています。続いて、コロンボの地上施設や港湾に停泊していた艦艇に対する空襲も行われ、駆逐艦や特設巡洋艦を撃沈する戦果を上げますが、天候不良のため、思ったほどの効果は有りませんでした。そのため、淵田中佐は機動部隊宛てに第二次攻撃を要請します。これを受けて、南雲提督は敵艦隊との交戦に備えて雷装で待機していた艦攻の兵装を陸用爆弾へと転換する作業を実施しました。すると、その途中で重巡「利根」の索敵機から「敵巡洋艦らしきもの2隻見ゆ」と、敵艦隊発見の報告が入ります。これは、オーストラリアの輸送船を護衛するため、A部隊と別れてコロンボへと向かっていた重巡コーンウォールとドーセットシャーでした。報告を受けた機動部隊では、再び攻撃隊を爆弾から魚雷へと再度兵装転換することになりました。陸上基地への第二次攻撃のため兵装転換作業を行っている途中で敵艦隊発見の報告を受け、再度兵装転換を実施するという、この一連の流れはまさに2か月後のミッドウェー海戦でも起きたことそのままです。このときの戦訓が真剣に研究されていれば、ミッドウェーでの展開も違ったものになっていたのでは、とはセイロン沖海戦に対してたびたび指摘されるところです。
★重巡コーンウォール、ドーセットシャー撃沈
しかし、この時は危険な兵装転換が致命傷になることはなく、午後3時過ぎ、「赤城」「蒼龍」「飛龍」の3隻から江草隆繁少佐率いる艦爆隊53機を発艦させます。攻撃隊は太陽を背にして敵に接近し、午後4時29分から2隻に対して急降下爆撃による空襲を実施しました。コーンウォールは赤城艦爆隊が、ドーセットシャーは蒼龍・飛龍艦爆隊が担当し、1発の不落下を除き52発の爆弾を投下。うち46発を命中させ、88%もの命中率を記録しています。2隻の重巡をわずか20分ほどで撃沈してしまうという鮮やかな手際を見せ、日本艦上機搭乗員の実力を存分に発揮したといえます。一方、コロンボ空襲の報を受けた英東洋艦隊もアッズ環礁に集結していたA・B部隊を出撃させますが、空襲を終えた南雲機動部隊が東へ向かったために接敵の機会を失い、得意の夜間雷撃を行うこともありませんでした。
★トリンコマリー空襲
4月9日、南雲機動部隊はセイロン島のもう1つの英海軍拠点である北部トリンコマリーへの空襲を実施しました。午前9時、淵田中佐率いる零戦41機・九七艦攻91機の計132機による第一次攻撃隊が発艦。10時6分にはトリンコマリーのレーダーが日本艦上機隊を捕捉します。10時20分、淵田中佐の「全軍突撃」の命令とともに空襲がはじまり、トリンコマリーの港湾や飛行場、停泊艦船、陸上基地、高射砲陣地などに大きな損害を与え、零戦隊は迎撃に出てきた英軍戦闘機9機を撃墜しています。攻撃隊はほとんど被害を受けることなく、12時30分に空襲を終えて帰投していきました。これに対し、英軍は空母に対する反撃のため、双発のブレニム爆撃機12機を発進させます。ブレニム隊は南雲機動部隊に被害こそ与えることはできませんでしたが、その攻撃は日本軍を驚かせるものになりました。
★空母ハーミーズ撃沈
第一次攻撃隊のトリンコマリー空襲中に、戦艦榛名の索敵機から敵空母発見の報告がもたらされました。南雲中将はただちに出撃命令を下し、午前11時43分、高橋赫一少佐率いる零戦6機・九九艦爆85機の攻撃隊が発艦します。この時、発見されたのは、トリンコマリーへの空襲を察知して洋上へと逃れていた空母ハーミーズと随伴の駆逐艦ヴァンパイアなどでした。空母を守るために避難させようとしたところが裏目に出てしまい、逆に機動部隊の集中攻撃を受ける結果になったのです。この時、ハーミーズは修理中であったため艦載機部隊は陸上基地に展開中で、自身を守る航空機を搭載していませんでした。日本側の無線を傍受していたハーミーズは艦上機隊に捕まる前にトリンコマリーへの帰路を急ぎますが、午後1時30分、ついに攻撃隊はハーミーズを発見します。高橋少佐の「全軍突撃」の命令の後、20分ほどの空襲でハーミーズは撃沈され、ほかに駆逐艦ヴァンパイアや一緒にいたコルベットのホーリー、補給艦、商船なども撃沈されています。このとき、ハーミーズには赤城隊2機・蒼龍隊18機・飛龍隊11機・翔鶴隊18機・瑞鶴隊14機の九九艦爆計45機が攻撃をかけており、そのうち37発が命中。コーンウォール、ドーセットシャー撃沈に続き、実に82%もの驚異的な命中率を記録しており、全盛期の南雲機動部隊搭乗員の練度の高さを表しています。
しかし、攻撃隊がハーミーズを沈めていた同じ頃、トリンコマリーから飛び立ったブレニムのうち9機が日本空母への攻撃を実施していました。英爆撃隊の空襲は完全な奇襲となり、「赤城」と「利根」が爆撃を受けています。直掩機を上げていたにもかかわらず、機動部隊は爆撃による水柱が上がるまで敵機の襲来にまったく気づいておらず、「赤城」の対空砲も一発も撃たれず沈黙したままでした。幸い急降下爆撃ではなく水平爆撃だったため命中弾はなく、被害が出ることもありませんでした。ブレニム隊は直掩の零戦により5機が撃墜されています。鮮やかな空母ハーミーズ撃沈の裏では、このように敵機による空母への奇襲攻撃事件が起きていました。もしブレニムの攻撃が命中していれば、ミッドウェー海戦のような悲惨な事態になっていたことも考えられます。この出来事は、レーダーをもたない日本海軍の対空見張能力に対して不安を感じさせることとなりました。
★インド洋作戦は必要な作戦だったのか
重巡2隻と空母1隻を沈めたことで英東洋艦隊に一定の打撃を与え、ビルマ作戦支援の目的も果たせたと判断した南雲機動部隊は、進路を東にとって内地へと帰還しています。南雲機動部隊のインド洋作戦は、主敵である太平洋のアメリカ海軍に背を向ける形で行われました。そのため、真珠湾で打撃を受けた米海軍に立ち直る余裕を与えることになったとして、当時から時間の無駄だったのではないかといった批判もありました。ですが、太平洋で米海軍と戦うにあたって、背後の安全を確保するためにインド洋の脅威を排除しておくことには一定の理があります。米海軍との戦いに本腰を上げるためには、英海軍に西から攻撃を受けることのないよう、米海軍が動けないこのタイミングで東洋艦隊を叩いておく必要があったのです。セイロン沖海戦は東洋艦隊に打撃を与えたものの、敵を撃滅するまでにはいかず、そのため、イギリス海軍に与えた影響は限定的だったともいわれます。ですが、この海戦以降、英海軍は東洋艦隊を東アフリカやインドへと退避させ、大戦後半になるまでインド洋で積極的な作戦を実施することはありませんでした。日本海軍にはインド洋の制海権を奪うまでの力はなく、セイロン島を攻略することもできませんでしたが、一時的に英海軍のもつ制海権を封じることはできたといえます。インド洋から攻撃される危険性を排除し、太平洋での戦いに全力を投じることができるようになったと考えれば、セイロン沖海戦も十分意味のある戦いだったといえるのではないでしょうか。
★活かされなかったセイロン沖海戦の教訓
セイロン沖海戦は、インド洋における英海軍の脅威を排除する意味では意味のある作戦であったといえます。しかし、その過程で、後のミッドウェー海戦の敗北にも通じるいくつもの不安要素が現れた戦いでもありました。
1、暗号を解読された結果、セイロン島周辺で英海軍に待ち伏せされたこと。
2、第二次攻撃のための兵装転換の途中に敵艦隊を発見し、再度兵装転換することになり、危険な状況を造り出したこと。
3、敵機による機動部隊への奇襲攻撃を受けたこと。
勝利のために霞んでいたものの、南雲機動部隊はかなり危ない橋を渡っていたのです。これらはミッドウェー海戦でも繰り返され、結果、南雲機動部隊は壊滅することとなりました。日本海軍がセイロン沖海戦の戦訓を真剣に研究し、その後に活かしていれば、ミッドウェー海戦の結果も違ったものになっていたかもしれません。セイロン沖海戦は、快進撃を続ける日本海軍の先行きに不穏な影を落とした海戦であったといえます。