セイロン沖海戦/日本海軍機動部隊の大勝利とその裏にあった危険

セイロン沖海戦は1942年4月5日から9日にかけてインド洋のセイロン島沖で発生した日本海軍とイギリス海軍による海戦です。この海戦で、日本海軍の空母機動部隊は英重巡2隻と空母1隻を撃沈することに成功しますが、イギリス東洋艦隊を完全に撃滅することはできませんでした。そのため、インド洋全域の制海権をイギリス海軍から奪うまでには至らず、連合軍への影響は限定的になりました。さらに、セイロン沖海戦では、敵艦隊の発見による兵装の転換を行ったことやその兵装転換中に敵機の奇襲攻撃を受けたことなど、後のミッドウェー海戦を予感させるような危険な場面もあり、この戦訓がきちんと研究されていれば、ミッドウェー海戦での大敗北も避けられたのではないかともいわれています。

沈没する空母「ハーミーズ」

★日本海軍のインド洋作戦

 日本海軍のインド洋作戦は、陸軍によるビルマ攻略の支援とアンダマン諸島攻略のために実施されたものです。日本軍の攻略作戦に対してイギリス海軍が妨害に出ることが考えられるため、これに対処することを目的としていました。当時、すでに日本軍はマレー半島やインドネシア攻略を押せており、第一段作戦である南方作戦は最終段階にありました。海軍の役割はあくまでも陸上作戦の支援であり、主目的はイギリス軍の海上交通・輸送路を遮断することです。しかし、インド洋にはイギリス海軍が拠点とするセイロン島があり、ここには英東洋艦隊の基地がおかれていました。そのため、日本海軍がインド洋に進出すれば、必然的に英東洋艦隊との決戦が予想されました。

★南雲機動部隊 セイロン島へ出撃

 1942年3月9日、連合艦隊は南方部隊に対してセイロン島への奇襲攻撃を命じます。日本機動部隊によるセイロン島への攻撃とそれに伴うイギリス艦隊との戦闘がセイロン沖海戦と呼ばれます。奇襲攻撃とは言え、日本海軍は単に空母を使ってセイロン島を空襲するだけでなく、英東洋艦隊をおびき出し撃滅することを狙っていました。敵が拠点としている島を攻撃することで敵艦隊を引きずりだそうとする発想は後のミッドウェー海戦にも通じるもので、セイロン沖海戦では、他にもいくつかの点でミッドウェー海戦と類似する部分が見られます。インド洋作戦には、パラオで座礁した空母「加賀」を除く「赤城」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」の5隻の空母が参加しました。本来は3月21日に出撃する予定でしたが、米空母の南鳥島に対する空襲により延期され、3月25日、南雲機動部隊はセレベス島南東のスターリング湾からセイロン島へと出撃していきました。

インド洋を航行する南雲機動部隊

★英東洋艦隊の状況

 ジェームズ・サマヴィル中将が指揮するイギリス東洋艦隊はシンガポールの陥落によりインド洋のセイロン島へと退避していました。サマヴィル提督は麾下の艦艇をいくつかにわけて、セイロン島のトリンコマリー、コロンボ、アッズ環礁の3カ所に分散して配置することで艦隊を温存し、ビルマ方面の日本軍に脅威を与える方針をとっていました。マレー沖海戦で主力戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスの2隻が撃沈されたことにより、戦力的には日本軍に対して不利な状況にあったためです。しかし、英海軍にとって有利な点もいくつか存在していました。
①暗号解読
 その1つが暗号の解読で、イギリス海軍は南雲機動部隊の出撃をはやくも2日後には察知していました。日本側の行動が暗号の解読によって敵に知られていたのもミッドウェー海戦と類似する部分といえます。しかし、この時のイギリス軍の暗号解読は完璧ではなかったため、日本軍の詳細な兵力やいつセイロン島を攻撃するかなどは細かな情報についてはわかっていませんでした。
②夜間雷撃
 そして、もう1つ、英海軍はレーダーを装備した艦載機による夜間雷撃を実施することができました。これは英海軍にとって、日本艦隊を撃滅するための切り札といえる戦法でした。さらに、英海軍の3つの拠点のうち、インド洋上のアッズ環礁だけは日本海軍にも存在を知られていなかったため、ここを利用すれば南雲機動部隊の不意を突くことも可能と考えられました。
 サマヴィル提督は、東洋艦隊を高速の戦艦・空母を中心とするA部隊と低速戦艦を中心とするB部隊に分けて南雲機動部隊を迎え撃ちました。

アッズ環礁
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