自衛隊の創設と海上自衛隊の再建

 護衛艦いずもの空母化や海外任務など、海上自衛隊の戦力と任務は拡大し続けています。海上自衛隊なくして、日本の防衛は成り立たないでしょう。 1945年の太平洋戦争終結によって、旧陸海軍は解体されました。しかし、旧海軍軍人を中心に海軍再建を模索します。こうした努力の甲斐もあり、海上警備隊、警備隊、そして、海上自衛隊が発足します。海上自衛隊は旧海軍の伝統を継承した組織として創設されたのです。


終戦と海軍再建の試み

 1945年9月2日にアメリカ海軍の戦艦ミズーリ上で降伏文書の調印が行われ、日本は降伏しました。日本の降伏に伴い、日本はアメリカを中心とする連合国の占領下に置かれます。占領軍の中心となったGHQがまず行ったのが、日本の軍隊の解体でした。
 GHQは日本の非軍国化・民主化を掲げており、太平洋戦争開始に責任があるとされた軍隊をまずは解体することにしたのです。こうして、大日本帝国陸海軍は解体され、陸軍省は第一復員省、海軍は第二復員省へと改組されました。陸海軍解体とはいえ、まだ戦争終結直後であり、日本国外には大量の兵士が残されていました。そして、陸海軍解体に伴う残務処理を行う組織だけが残されることになったのです。
 陸海軍解体とはいえ、陸軍と海軍は事情が異なりました。海軍は組織を少しではありますが、残すことに成功します。海軍を残そうという試みは、終戦直後から行われていました。海軍省で行われていた終戦処理の会議において、海軍再建の意見が出され、翌1月には再建研究を行うことを申し合わせていました。その役割を託されたのが、軍務局長だった保科善四郎です。そして、海軍再建研究の中心となったのが、当時軍務局第三課長だった吉田英三です。 彼らは密かに海軍再建の研究にあたっていました。旧海軍の軍人達は、アメリカ軍にも働きかけ、海軍再建を模索します。元海軍大将で駐米大使を務めた野村吉三郎や保科善四郎、そして第二復員局の吉田ら元海軍軍人らはアーレイ・バークアメリカ海軍少将らと信頼関係を築き、海軍再建へと進んでいくことになります。


残された日本海軍-掃海部隊と復員

B-29

 軍隊再建を目指す動きは陸軍も同様でしたが、海軍の場合にはある程度の将兵を残すことに成功します。それは、現実的な理由からでした。
 太平洋戦争中、日本海軍は自国防衛のために港湾や周辺海域に機雷を敷設していました。この除去が必要だったのです。これだけならば、海軍の記録を参照しながら、掃海作業を行えば良かったのですが、そうはいかない事情がありました。
 太平洋戦争末期、アメリカ軍は日本の輸送能力打撃を目論み、潜水艦やB29爆撃機を用いて、大量の機雷をばら撒きます。連合軍はマリアナ諸島やフィリピンを経て、日本本土に迫ろうとしていましたが、アメリカ軍の機雷敷設によって、日本は東南アジアや朝鮮半島との連絡だけでなく、国内運航も困難となってしまいます。
 日本を占領した連合軍は、この機雷の掃海が必要となりました。敷設されていた機雷はアメリカ軍が敷設したものが1万703個、日本海軍が敷設したものが5万5347個に上ります。この中で、戦争中に日本海軍が掃海ないし、自爆等で処分されていたものが4157個でしたので、6546個が残されていました。
 機雷掃海は緊急の課題でした。終戦直後の9月18日に海軍省軍務局に掃海部が置かれ、掃海作業が続けられました。海軍が解体されてしまいますが、連合軍だけでは、大量の機雷掃海は不可能に近い状況です。こうした中で、1946年に運輸省傘下に海上保安庁が設置されます。この時、掃海部隊も創設され、旧海軍の残存部隊が海上保安庁航路啓開本部と各管区海上保安本部航路啓開部となりました。引き続き、日本周辺の機雷処分を実施することになります。
 掃海部隊という形で、旧海軍の組織が残されることになります。ここに旧海軍の軍人が参加し、海軍の伝統が継承されることになります。今でも、海上自衛隊では旧海軍の伝統を継承していますが、それはこうした理由によるものです。


朝鮮戦争と警察予備隊の創設

 軍隊が解体された日本ですが、早くも軍隊再建の機運が高まります。米ソの冷戦が激化する中で、アメリカ軍だけでは日本の防衛は困難と見られるようになりました。こうした中で起こったのが朝鮮戦争です。
 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、日本に駐留していた連合軍が朝鮮半島へと送られます。日本に戦力の空白が生まれると、この隙にソ連などの東側陣営がつけ込むのではないかという意見が出されるようになりました。折しも、前年の1949年には中華人民共和国が成立し、中国は共産主義勢力の一翼を担うことになっていました。日本は反共の防波堤としての役割を期待されるようになります。
 こうした中で、1950年にGHQの指令に基づくポツダム政令により、警察予備隊が総理府の機関として組織されました。警察予備隊は後の自衛隊の前身となる組織です。
 一方、旧海軍軍人達は、海軍再建への動きを加速させていきます。1951年10月、吉田茂首相と連合国軍最高司令官マシュー・リッジウェイ大将の会談において、フリゲート18隻、上陸支援艇50隻を貸与するとの提案がなされ、吉田首相はこれを承諾します。この提案に対して、艦艇受入れと運用体制の確立に関する政府の諮問に答えるための委員会(通称Y委員会)が設立されました。Y委員会によって、新しい海軍の母体となる組織の制度や枠組みを示した特殊研究資料が作られました。この資料は、後の海上警備隊創設の基礎案となりました。

海上警備隊から海上自衛隊へ

 Y委員会の資料を基にして、1952年4月26日に海上警備隊が創設されます。海上警備隊は海上保安庁の機関という位置づけでした。Y委員会での検討により、アメリカから貸与された艦艇は、他の巡視船艇とは別個に、海上保安庁内に設置される専用の部局で集中運用されました。そして、海上保安庁に所属していた掃海部隊も編入されます。
 海上警備隊は、その後、8月1日に保安庁が創設されると、海上警備隊と掃海部隊は警備隊として統合され、海上保安庁から分離されます。そして、1954年7月、保安庁が防衛庁に移行し、警備隊も海上自衛隊に発展改編されました。こうして、海上自衛隊が発足します。終戦から9年を経て、日本の海軍力が再建されることになります。
 海上自衛隊はその後、アメリカを中心とする西側陣営の一翼を担い、冷戦を陰から支えていきます。そして、現在では米中対立の中で、対中国の最前線にいます。この歴史の陰には、終戦後旧海軍を残そうとした努力があったことを記憶していても良いかもしれません。

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