97式艦上攻撃機は太平洋戦争の開戦当初から活躍した機体です。真珠湾攻撃など、日本海軍の空母機動部隊の快進撃を支えました。しかし、戦争も中盤へと入っていくと、損害も大きくなっていきます。後継機の天山が開発されると、徐々に前線を退いていきました。今回は97式艦上攻撃機について紹介します。
初の金属製単葉の艦上攻撃機
1935(昭和10)年、日本海軍は中島飛行機と三菱重工に対して、新型艦上攻撃機の開発を命じました。十試艦上攻撃機の名称で両社は開発を開始します。97式艦上攻撃機の1年前に開発された96式艦上攻撃機は優秀な性能でしたが、複葉機だったために活躍できずにいました。当時は既に全金属製で単葉の高速機が続々と開発されており、複葉機では時代遅れだった訳です。
こうしたこともあり、十試艦上攻撃機は全金属製で単葉機として開発されました。中島製と三菱製の試作機はそれぞれ1936(昭和11)年11月に初飛行に成功します。十試艦上攻撃機は両社の競作でしたが、中島製、三菱製の機体には決定的な性能差がなかったために、どちらも採用されることになりました。
1937(昭和12)年に中島の機体が97式1号艦上攻撃機、三菱の機体が97式2号艦上攻撃機として採用されました。どちらも初の全金属製の低翼単葉機でした。それまで使用していた96式艦上攻撃機よりも最高速度が100kmも上がっていました。
1号と2号の違い
中島製と三菱製の双方が採用されたとはいえ、双方の機体には違いがありました。ここからはその点を紹介していきます。
まず中島製の1号ですが、これには同時期に開発されていた十試艦上偵察機の技術も採用されていました。可変ピッチプロペラ、蝶型ファウラーフラップ、密閉式風防などです。1号は日本製の単発機で初めて引込脚を採用しました。そして、発動機は光三型です。このエンジンは九三式二型双発軽爆撃機、九五式艦上戦闘機、九六式艦上攻撃機、九七式一型司令部偵察機などにも搭載されているエンジンでした。後に中島飛行機が発動機栄を開発すると、栄を搭載する97式艦上攻撃機3号も開発されました。
一方、三菱製の2号は、固定脚でした。そして、油圧系統や主翼折り畳み機構などに問題があったとされています。
中島の1号、そして三菱の2号は3号が開発されると、生産の中心はそちらに移っていきました。三菱の2号は1941(昭和15)年には生産が終了しており、2号は訓練や哨戒に用いられたとのことです。
空母機動部隊進撃の立役者
97式艦上攻撃機は正式採用されると、まずは中国大陸での作戦に投入されます。太平洋戦争開始以前は主に地上攻撃に用いられたようです。
97式艦上攻撃機の名前が有名になったのは真珠湾攻撃でした。1941(昭和16)年12月8日(日本時間)、ハワイ時間では12月7日に日本海軍の空母機動部隊がアメリカ海軍の根拠地である真珠湾を攻撃しました。ここで活躍したのが97式艦上攻撃機でした。
真珠湾攻撃で問題となっていたのが、真珠湾の水深でした。事前調査では真珠湾の水深は浅く、航空雷撃は難しいのではないかとされていました。真珠湾の水深は12メートルとされており、魚雷を投下した場合、魚雷が海底に突き刺さってしまう可能性がありました。そこで海軍航空技術廠は当時日本海軍が使用していた91式魚雷を改良し、航空隊は超低空飛行を行った上で水深10メートル以下でも使用できるようにしました。
航空雷撃の可否はこの作戦において重要な点でした。真珠湾攻撃を提案した連合艦隊司令長官の山本五十六自身は雷撃が出来なければ作戦を断念するとしていたほどです。たしかに航空機から艦艇に対しては爆撃も可能ですが、爆撃は艦艇の上部を破壊するのみで、撃沈にまで至らせることは難しいと言えます。一方、雷撃は水面下に魚雷を命中させるので、撃沈につながりやすい攻撃方法でした。
真珠湾にはアメリカ海軍の戦艦などの主力艦が多数在泊しており、これらの艦艇を攻撃し、撃沈、もしくは致命傷を与えることで緒戦を有利に運ぼうというのが、真珠湾攻撃の目的でした。雷撃が出来なければ、真珠湾攻撃自体の効果が薄くなってしまっていたでしょう。
真珠湾攻撃において、97式3号艦上攻撃機143機が出撃しました。この中には爆弾を装備した水平爆撃隊が103機、改良した91式魚雷を搭載した雷撃隊40機が含まれていました。雷撃隊は戦艦4機を含む6隻の艦艇を雷撃し、魚雷36本(アメリカ側資料では23本)の命中に成功しました。97式艦上攻撃機は真珠湾攻撃の勝利の立役者だったのです。
その後、97式艦上攻撃機は空母機動部隊と共に各地を転戦します。しかし、大戦も中盤に入ってくると、損害が大きくなってきました。しかし、後継機の天山はエンジンや機体のトラブルにより開発が遅れてしまいます。こうした中でも97式艦上攻撃機は出撃せざるを得ませんでした。
天山の正式採用以降、97式艦上攻撃機は主に陸上基地から運用されます。その後はレーダーを追加装備して、対潜哨戒や輸送船団の護衛任務にあたりました。大戦末期には特攻に投入される機体もあったようです。
97式艦上攻撃機は大戦初期の日本の快進撃を支えた機体の一つでした。後継機の投入遅れにより、損害が大きくなりましたが、間違いなく日本を代表する機体だったということが出来るでしょう。
主要参考資料
・雑誌「丸」編集部『九七艦攻/天山 (ハンディ判図解・軍用機シリーズ)』光人社、2000年。