★第一夜戦
第三次ソロモン海戦は、11月12日から13日にかけての第一夜戦、14日から15日にかけての第二夜戦の二度にわたる夜間での海戦が発生しました。12日午前3時30分、第二艦隊からは第十一戦隊司令官阿部弘毅中将を指揮官とする挺身隊が分離し、警戒隊である第四水雷戦隊の駆逐艦5隻と合流後、砲撃のためガ島へ向けて針路をとります。南進していた挺身攻撃隊は午後3時ごろからスコールに見舞われ、午後8時を回ると雨はさらに強くなり、雷鳴を伴うようになります。この雨ではガ島への砲撃は難しいと判断した阿部中将は午後9時50分、反転を命じます。しかし、直後の午後10時10分ごろから天候が回復したため、砲撃実施を決め再度反転命令が出されました。この2回にわたる反転のため、挺身攻撃隊の隊列は大きく乱れ、駆逐艦「夕立」「春雨」の2隻は本隊から約5キロ前方に突出し、反対に「朝雲」「村雨」「五月雨」の3隻は右後方約9キロのところに取り残されていました。阿部中将はこれに気づいておらず、午後11時30分、ガ島への砲撃命令を出し、比叡・霧島は対地攻撃のための三式弾を主砲に装填しました。
★日米とも隊形を乱したまま至近距離の乱戦へ
一方、米軍は午後10時頃には迎撃態勢を整えると、索敵機からの情報により、日本艦隊の接近を知ると、単縦陣でサヴォ島方面へと針路をとります。米艦隊は前衛に駆逐艦4隻、中央に本隊である巡洋艦部隊を配置し、後方に駆逐艦が続く隊形をとっていました。
午後11時24分、軽巡「ヘレナ」のレーダーが日本艦隊を捉えます。キャラハン少将は丁字戦法による日本艦隊を迎え撃つべく回頭を命じますが、命令の伝達ミスや「夕立」「春雨」に気づいた米駆逐艦が急な進路変更を行ったこともあり、米艦隊は丁字戦法に失敗して大きく隊列を乱すことになります。こうして、日米両艦隊は互いに隊形を崩したまま接近し、海戦は至近距離での乱戦になりました。
一方、日本側も午後11時18分頃には米艦隊の接近に気づいており、先頭を進んでいた「夕立」は真っ先に単艦で敵の隊列へと突っ込んで行きました。「夕立」の突進はこれに気づいた米駆逐艦「カッシング」による急転舵を起こし、これをきっかけに米艦隊の隊列を大きく乱す思わぬ効果も生みました。午後11時51分、戦艦「比叡」が探照灯を点灯させるとともに、日本艦隊は砲撃を開始しました。米艦隊を発見したとき、「比叡」・「霧島」はガ島への砲撃を開始する直前で、主砲には三式弾が装填されていました。徹甲弾に切り替える余裕はないと判断した阿部中将はそのままでの射撃を命じます。比叡による砲撃は軽巡「アトランタ」に命中し、艦橋に大きな被害を与え、指揮官であるノーマン・スコット少将も戦死させました。しかし、探照灯を照射した比叡も敵艦からの集中砲撃を受けることになり、大火災を引き起こし、最期には操舵不能に陥りました。日米両艦隊は至近距離での大乱戦に陥り、同士撃ちも発生するほどでした。キャラハン少将は、奇数番艦は右、偶数番艦は左に向けて砲撃するよう命令を出しますが、これは隊列が乱れた米艦隊をさらに混乱させる結果になります。日本艦隊は最初、「比叡」など突出した一部の艦のみが戦闘に参加していましたが、11時54分頃からは「霧島」を含め、ほぼすべての艦が加わりました。霧島の砲撃はキャラハン少将の座乗する重巡サンフランシスコなどに損害を与え、キャラハン提督もこの海戦で戦死しています。
★戦艦「比叡」沈没
この海戦で米艦隊は「アトランタ」をはじめとする軽巡2隻と駆逐艦4隻が沈没し、その他6隻が損傷を受けました。対する日本側の損害は駆逐艦「暁」が沈没し、先頭に立って敵艦と激しい砲戦を繰り広げていた「夕立」も大火災を起こして戦闘不能となり後に沈没。そして、舵が壊れて面舵をとり続ける状態になっていた戦艦「比叡」は、翌13日に米軍機の激しい空襲を受けます。艦の修復は絶望的と思われ、主機械使用不能の誤報もあったことで、自沈処分することが決まります。こうして、比叡は太平洋戦争で最初に失われた日本海軍の戦艦になりました。第一夜戦は、日本艦隊より米艦隊のほうが損失艦が多く、海戦自体は日本の勝利といえるものでしたが、挺身攻撃隊は混乱と状況が不明確だったことからガ島への砲撃をとりやめて撤退しています。そのため、本来の目的を果たすことはできず、14日には輸送船団が空襲を受け、11隻中6隻が沈没する大損害を出しました。
★第二夜戦
輸送船の被害を見た日本海軍は、やはり飛行場を制圧する必要があると考え、再び戦艦によるガ島への砲撃実施を決定します。ガ島攻撃隊である近藤信竹中将率いる、戦艦「霧島」重巡「愛宕」「高雄」などを中心として前進部隊は、14日午前3時30分、ガ島へ向けて針路をとりました。前進部隊は砲撃を行う射撃隊や掃討隊、その他の護衛艦艇に分かれていました。これに対して、米側でもウィリス・リー少将率いる第64任務部隊をガ島付近に待機させており、艦艇の数は少なかったものの、今度は強力な戦艦2隻を有していました。味方潜水艦からの日本艦隊接近の報を受けた米艦隊は、サヴォ島周辺の海域へと向かっていました。
★第二夜戦参加兵力
●日本海軍 前進部隊
射撃隊
戦艦「霧島」
重巡「愛宕」「高雄」
掃討隊
軽巡「川内」
駆逐艦「浦波」「敷波」「綾波」
直衛
軽巡「長良」
駆逐艦「雷」「五月雨」「朝雲」「白雪」「初雪」「照月」
●アメリカ海軍 第64任務部隊
戦艦「ワシントン」「サウスダコタ」
駆逐艦「ウォーク」「ベンハム」「グウィン」「プレストン」
★駆逐艦「綾波」の快挙
サヴォ島の北に到達した日本艦隊では、午後8時、「敷波」が敵らしい艦影を発見します。近藤少将は戦闘を下令し、掃討隊を先頭に各艦は米艦隊へ向かっていきました。米軍でも午後8時52分にレーダーが日本艦隊を捉え、17分には星弾が撃ち上げられ、砲撃が開始されています。再び夜戦に突入した日米両軍ですが、この戦いで最も活躍したといえるのが、掃討隊に所属していた駆逐艦「綾波」でした。敵を捕捉した掃討隊はサヴォ島を迂回しようとしたのですが、その時、「川内」「浦波」「敷波」が東側を回ったのに対して、西側から回った「綾波」は単艦で敵艦隊に突っ込んでいくことになりました。午後9時20分頃から砲雷撃戦を開始した「綾波」は、駆逐艦「プレストン」、「ウォーク」に砲撃を浴びせて炎上させ、さらに「ベンハム」、「ウォーク」に魚雷も命中させます。先に砲撃も受けていた「ウォーク」はこれによって撃沈され、「ベンハム」も行動不能になって後に沈没しています。さらに「綾波」は「サウスダコタ」にも砲弾を浴びせて火災を発生させました。しかし、突出していた「綾波」は自身も敵からの集中砲火を受けることとなり、米駆逐艦と戦艦「ワシントン」の砲撃により、最期には大爆発を起こして沈没しています。「綾波」はたった1隻で敵駆逐艦2隻撃沈、1隻大破、さらには戦艦にも損傷を与える大戦果を上げました。これほどの快挙を成した駆逐艦は日本海軍だけでなく、世界の海戦史上においても例がなく、「綾波」の乗員たちは海に投げ出されてからも意気軒高で多くの敵艦を倒した喜びに湧いていました。
★戦艦サウスダコタ撃破
米駆逐艦は3隻が「綾波」の活躍により沈没・大破し、残る「グウィン」も他の日本艦艇の砲撃により撃破され、前衛部隊を排除された米艦隊は2隻の戦艦を残すのみとなりました。午後10時ごろ、射撃隊が敵戦艦の姿を発見して戦闘が開始されます。日本重巡・駆逐艦は多くの魚雷を発射しますが、信管を過敏に調整していたため、そのほとんどが途中で自爆してしまい、命中弾はありませんでした。さらに、雷撃と同時に「霧島」「愛宕」「高雄」の3隻による砲撃も行われ、太平洋戦争初となる戦艦同士の砲撃戦が勃発しました。「霧島」の命中精度は高く、初弾を命中させると、その後も戦艦「サウスダコタ」に次々と命中弾を叩き込んでいきます。近くにいた「ワシントン」は同士撃ちを恐れて砲撃することができず、結果として「サウスダコタ」を見殺しにすることになりました。「サウスダコタ」ではレーダーが使用不能となり、一時は停電も発生しました。司令塔や主砲に損害を受けて火災が起こり、やがて、戦場から離脱していきました。
★戦艦「霧島」の最期
米艦隊で残っているのは、それまで目標にされていなかった「ワシントン」ただ1隻となりました。「サウスダコタ」の陰から姿を現した「ワシントン」は、レーダーで「霧島」を捕捉すると、至近距離から砲撃を開始しました。主砲・副砲あわせて50発近くが発射され、そのうち9発が「霧島」に命中。「霧島」は大火災を起こして航行不能となり、翌15日の午前1時25分ごろに沈没しています。近藤中将はガ島砲撃の中止と撤退を決定し、午後11時25分頃から日本艦隊は戦場を離脱していきました。第二夜戦では、日本が戦艦と駆逐艦1隻ずつの沈没と引き換えに米駆逐艦3隻を撃沈し、1隻を中破させています。結果だけみれば日本の勝利といってもよい海戦ですが、またしてもガ島砲撃には失敗することになりました。
★ガ島戦の転機となった第三次ソロモン海戦
第三次ソロモンは第一夜戦・第二夜戦ともに海戦自体は日本海軍の勝利と呼んでいい結果に終わっています。しかし、日本側も戦艦2隻を失う大きな損害を受けており、さらに、飛行場への砲撃を行うという本来の任務が達成できなかったため、肝心のガ島への輸送船団は空襲により壊滅することになりました。これにより、日本軍のガ島奪還は難しくなったどころか島にいる部隊への物資の補給すらままならなくなります。多数の輸送船を失った日本軍はその後、駆逐艦や潜水艦を使った輸送へと切り替えることになり、ガ島の補給事情は次第に悪化していき、最期には餓島とまで呼ばれるようになりました。第三次ソロモン海戦はその転機となった戦いといえます。そのため、海戦の結果に関わらず、日本軍にとっては戦略的敗北といえるものであり、ガ島を巡る攻防戦の敗北への一歩となった海戦といえるでしょう。