トラック島は西太平洋における日本海軍最大の拠点でした。日本海軍はトラック島を絶対国防圏の拠点として重視していました。しかし、1944年2月にトラック島がアメリカ軍の空襲を受けます。この空襲によって、トラック島は壊滅的な打撃を受け、その後機能停止に追い込まれます。アメリカ軍はトラック島を攻略せず、トラック島は孤立したままで終戦を迎えました。今回はトラック島空襲がどのようなものだったのかを紹介します。
日本海軍最大の拠点トラック島
トラック島が日本の支配下にはいったのか第一次世界大戦後のことです。元々、トラック島をはじめとするカロリン諸島はスペイン領でしたが、ドイツに売却されました。第一次世界大戦の勃発とともに日本が占領し、ドイツの敗戦に伴い、1920年に日本の委任統治領となります。
トラック島は日本にとっては戦略上重要な島でした。トラック島は、アメリカの植民地であるフィリピンとアメリカ太平洋艦隊の拠点となっていたハワイ島を間に位置していました。しかし、ワシントン海軍軍縮条約によって、要塞化が禁止されており、地理的に重要な島であるにも関わらず、拠点化は行われませんでした。
その後、1933年に日本が国際連盟を脱退し、1936年にワシントン海軍軍縮条約が失効したため、基地の整備が行われていきます。トラック島は、広大な内海を有しており、艦隊の拠点としては最適な条件を備えていました。日本海軍はトラック島を泊地として整備していきます。トラック島は日本の真珠湾、太平洋のジブラルタルと称されるほどでした。
1941年になると要塞化はさらに進められ、竹島飛行場は拡大整備され、夏島には水上機基地が設けられます。その他、要塞法や重油、航空燃料の保管タンクの設置が進められ、「小松」や「南国寮」といった海軍料亭の支店も設けられるほどでした。
太平洋戦争が勃発すると、連合艦隊の主力が進出してきます。その後、太平洋における戦いでは根拠地として利用されるようになりました。しかし、大型船が着岸可能な岸壁やドックはなかったため、損傷艦艇は応急的な修繕しか出来ませんでした。
絶対国防圏設定とトラック島
1943年10月になると、アメリカ軍はタラワ島やマキン島などを占領し、太平洋を島伝いに西進していました。12月上旬には日本の拠点であったクェゼリン環礁などを攻撃します。一方、日本側は1943年9月に絶対国防圏を設定します。これは日本が本土防衛、戦争継続のために必要不可欠な領域を定めたものです。絶対国防圏を守るために、太平洋地域において重要な拠点となったのがトラック島でした。
その一方で、トラック島の防備強化はなかなか進みませんでした。既に日本海軍は制海権を失っており、太平洋ではアメリカの潜水艦の活動が活発になっていました。そのため、トラック島の基地強化のための物資はなかなか届かず、強化自体がままならない状況でした。
こうした状況の中で1944年1月以降、連合艦隊はトラック泊地からパラオなどに移動していきます。アメリカ軍の機動部隊がマーシャル諸島に襲来していました。一方、トラック泊地は燃料が不足しており、防備も不十分な状況でした。そのため、トラックからの撤退を選択した訳です。 戦艦武蔵をはじめとする艦隊が移動していく中で、巡洋艦や駆逐艦などが残留することになりました。また、トラック島への荷揚げを待つ商船隊が遺されていました。トラック島の設備は不十分だったため、荷揚げに時間がかかっていたようです。一方で、これらの艦船や商船隊にはアメリカ軍来襲の予兆は知らされませんでした。こうした状況の中で、アメリカ軍が来襲しました。
ヘイルストーン作戦
アメリカ軍はトラック泊地攻撃のため2月4日から航空機や潜水艦によってトラック周辺の偵察を実施しました。その結果を踏まえ、2月12日~13日にメジュロ環礁を出撃し、15日に補給部隊と合流の上、補給を行い、16日午後から日本軍の航空哨戒を避けながらトラック島に接近し、17日にトラック諸島東部200海里の地点に到達するとしていました。この地点から攻撃隊を発進させるのが作戦計画でした。
作戦には空母9隻や戦艦、巡洋艦など45隻、航空機589機が参加するとしていました。作戦ではまず航空基地を攻撃し、制空権を奪ったうえで、艦船や地上施設を徹底的に攻撃するとしていた。
アメリカ軍がトラック島に迫る中、日本軍も索敵を行っていました。しかし、2月16日の索敵結果を受け、警戒態勢を緩めてしまいます。当時は大本営陸軍部と海軍部の公館たちが南方視察行の途中でトラックに立ち寄っていました。当時の日本海軍には空襲に対する警戒が緩んでいたと言われています。
2月17日未明、アメリカ軍の空襲が開始されました。警戒態勢が解除されていたこともあり、アメリカ軍の迎撃準備は進まず、環礁内にいた艦船にはアメリカ軍機動部隊接近の情報は伝えられませんでした。
結果的にアメリカ軍の攻撃隊は奇襲に成功します。日本海軍は迎撃機を離陸させようとしますが、77機を発進させたのに対して、実際に飛び立てたのは40機でした。その他の機体は離陸直後や発進中にアメリカ軍に撃墜されてしまいました。
アメリカ軍は制空権を獲得し、環礁や地上施設への攻撃を行います。結局、環礁にいた艦船はほとんどが撃沈させられ、トラック島の地上施設も大きな損害を受けました。アメリカ軍の損害は、日本軍の反撃によって空母イントレピッドが小破したのみでした。
トラック島空襲の結果、日本海軍は艦隊に随行する輸送船舶を大量に失い、備蓄燃料や軍事物資を大量に喪失したため、後の作戦に大きな制約が生じました。日本海軍はトラック島の損害に衝撃を受け、海軍丁事件として処理しました。
一方、アメリカ軍はトラック島を戦略目標から外すことになります。空襲によって基地機能を失ったため、上陸の必要性がなくなったためです。トラック島には上陸作戦は実施されず、空襲が繰り返されることになります。日本本土とトラック島の補給線は遮断され、自給自足を余儀なくされる中で、トラック島は終戦を迎えることになります。
主要参考資料
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<5> ―第三段作戦中期―』 第71巻、朝雲新聞社、1974年3月。