K作戦は太平洋戦争中に日本海軍が実施した航空作戦です。二式大艇をつかって、遠くハワイまで行く作戦を実施しました。攻撃、偵察と2回の作戦はそれぞれ目的が異なりますが、二式大艇にとってはこれが初めての実戦でした。今回は、K作戦がどのようなものだったのかを紹介します。
第一次作戦
第一次作戦は1942年2月に開始されました。1941年12月の真珠湾攻撃の結果、アメリカ太平洋艦隊は大きな損害を受けます。日本海軍は潜水艦に搭載されている偵察機を使ってハワイの偵察を行ったところ、アメリカ側は灯火管制もせず、真珠湾の復旧を行っていることが確認されました。
この偵察結果を受け、日本海軍は二式大艇を使った空襲計画を立案します。真珠湾で行われている復旧活動を妨害し、アメリカ軍の士気をさらに挫こうというのが作戦の趣旨でした。真珠湾攻撃以来、アメリカ軍は日本に負け続きであり、アメリカ本土も日本海軍の潜水艦による砲撃や空襲を受けている状況でした。これにさらなる打撃を与えようというものです。
作戦を担当する南洋部隊はオアフ島攻撃作戦計画を作成しますが、投入されたのは2機のみでした。計画では、5から6機の投入で計画していましたが、当時使用可能な二式大艇は2機しかありませんでした。
作戦では、オアフ島西北西約480海里にあるフレンチフリゲート環礁に潜水艦を配備し、二式大艇に燃料補給を実施する、誘導の潜水艦をハワイ方面に配置するというものでした。この作戦に備えて、補給任務につく伊15、伊19、伊26の3隻の潜水艦は航空燃料補給装置を装備します。
作戦は3月2日と7日に実施される予定でしたが、潜水艦が索敵に従事することになったため、2日延期されます。1942年2月12日に作戦を担当する二式大艇は横須賀を出発し、出撃地のウオッゼ島へと移動します。同時に補給担当の潜水艦3隻はフレンチフリゲート礁へ、誘導担当の伊9潜水艦はハワイ方面に配置につきました。
二式大艇は3月4日に出撃地を出発し、潜水艦から補給を受けた後にオアフ島へと向かいます。二式大艇はアメリカ側のレーダーに捕捉され、迎撃機が発進しますが、発見されることはありませんでした。一方、空襲警報も発令されていたため、電灯は消えており、探照灯が照射されていました。1番機は爆撃を行いますが、オアフ島のルーズベルト高校から300メートルの部分に着弾します。2番機の爆弾は真珠湾入り口付近などの海上に落下したものと推測されます。爆撃隊は帰投しますが、艇底に損傷があり、3月中の作戦を断念しました。
第二次作戦
第二次K作戦は、ハワイ方面の偵察作戦として立案されました。当時、日本海軍はミッドウェー島の攻略を決めており、アメリカ軍の空母部隊の動向を探る必要があったためです。ミッドウェー作戦を進めるためには、アメリカ軍の空母部隊が出撃してくるかどうかで、作戦自体が大きく変わってしまいます。
当時はアメリカ軍の機動部隊がどこにいるのか分からない状況でした。南太平洋方面に出没していたので、日本海軍は南太平洋方面に展開中という判断を強めます。こうした状況の中で偵察を行おうという訳ですが、偵察に成功したとしても問題があります。真珠湾に空母機動部隊が居なかったとしても、南太平洋に依然として展開しているのか、日本軍のミッドウェー攻略部隊が発見されており、空母機動部隊が迎撃に向かっているのかが分からないためです。
そのため、作戦計画では、6月3日までに真珠湾を偵察し、6月2日までにアメリカ艦隊に対する哨戒網を張る計画となっていました。哨戒網は真珠湾からミッドウェーに向かうアメリカ艦隊を捕捉するためのものでした。
しかし、この哨戒網には穴がありました。5月28日には日本海軍のミッドウェー攻略部隊がサイパン島を出発しています、哨戒網が展開されるのは、6月2日であり、もし6月2日以前にアメリカの機動部隊が出撃した場合には、哨戒網の展開は間に合わないことになってしまいます。
作戦自体の不徹底は他の面でも同じでした。潜水艦も6月2日に配備できるのは1隻のみで、6月3日以降に10隻の配備が可能になるという状況でした。本来ならば、配備可能なすべての潜水艦を配備した上で東へと進んでいくべきでした。こうすれば、途中で捕捉することも可能かもしれません。しかし、連合艦隊は作戦を変更せずにそのまま継続しました。
一方のアメリカ軍は第一次作戦の後に同じような作戦が行われることを警戒していました。暗号解読や通信解析の結果、フレンチフリゲート礁が中継地として利用されたことを突き止めており、再度の利用を阻止するために艦艇による警備を強化していました。
5月30日に給油を担当していた伊123、5月31日に伊123がフレンチフリゲート礁に到着しますが、アメリカ軍艦艇が警備中でした。アメリカ軍の警戒が厳しいために、作戦は中止されます。肝心のアメリカ艦隊への偵察は行われませんでしたが、連合艦隊も何ら対策は取りませんでした。こうして偵察が不徹底なまま、ミッドウェー作戦を迎えたのです。
主要参考資料
・防衛研修所戦史室編『戦史叢書38 中部太平洋方面海軍作戦1(昭和17年5月まで)』、朝雲新聞社、1970年。
・防衛研修所戦史室編『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』朝雲新聞社、1971年。
・防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書80 大本營海軍部・聯合艦隊(2) ―昭和17年6月まで』朝雲新聞社、1975年2月。