パイク作戦/英仏による幻のソ連攻撃作戦

パイク作戦は第二次大戦初期に計画されたイギリス・フランス連合軍によるソ連のコーカサス油田爆撃作戦です。1941年の独ソ戦開始前、独ソ不可侵条約を結んでいたソ連はドイツと親密な関係にありました。そのため、戦略物資であるソ連の石油がドイツに流れることを懸念した英仏により、ソ連の油田地帯を攻撃してドイツの戦争経済に打撃を与えるパイク作戦が計画されます。パイク作戦はもし実行されていれば、その後のイギリスやアメリカとソ連との同盟関係にも大きな影響を与えていたかもしれない作戦です。しかし、ドイツによるフランス侵攻がはじまったためにパイク作戦は実行に移されることなく幻の作戦に終わりました。

★独ソ不可侵条約 手を結んだ2人の独裁者

 1939年8月23日、独ソ不可侵条約(モロトフ・リッペントロップ協定)が締結されます。それまで反共産主義を掲げていたヒトラーがスターリンと手を結んだ事実は世界に大きな衝撃を与えました。英仏との関係が悪化していたドイツはソ連との戦争を一時的に回避する必要があり、一方のソ連は、英仏がドイツをけしかけようとしているのではないかと不信感をもっていました。こうして、相容れない関係だった2国は一時的な同盟関係となり、ソ連からドイツに対して、ドイツの工業製品などと交換に石油や穀物、鉱物といった経済物資の供給が行われることになりました。

独ソ不可侵条約に調印するソ連外相モロトフ (後列にはスターリンも)

★独ソの協力関係とコーカサス油田爆撃計画

 独ソ不可侵条約により、1939年9月、ソ連はドイツに呼応してポーランドへ侵攻しました。さらに、ソ連とフィンランドの間で冬戦争が起きると、今度はドイツがソ連に協力してフィンランドへの援助物資の輸送を妨害します。こうした独ソの協力関係に懸念を覚えた英仏は、ソ連製の石油がドイツに供給されるのを防ぐため、ソ連の油田地帯に対する爆撃を計画するようになります。ソ連のコーカサス地方には、マイコプ・グロズヌイ・バクーといったいくつもの巨大な油田が存在していました。なかでもユーラシア最大の油田地帯であるバクーの産出量は極めて多く、ドイツが重要な石油供給減とみなしていたルーマニアのプロイエシティ油田のおよそ5倍にもおよびました。そのため、ソ連による石油の供給を妨害できれば、ドイツの戦争に経済に対して大きな打撃を与えることができると考えられたのです。

ADN-ZB/Archiv Rußland 1912 Erdöl-Tanks der Naphtagesellschaft Gbr. Nobel in Baku. 4170-12 [Scherl Bilderdienst]

★英仏によるコーカサス油田の偵察

 1940年3月25日、フランス首相に就任したばかりのポール・レノーは、ドイツへの軍需経済に打撃を与えるため、イギリスのチェンバレン政権に対して、ソ連油田への爆撃を提案しました。これを聞いたイギリスは実行に移すかどうかは別として、予備調査だけでも行うことを決めます。翌日以降、イラクとイランの基地から国籍マークを消した英軍機が飛び立ち、コーカサス上空で写真撮影など偵察行動を実施しました。これにより、バクーをはじめとする油田地帯のインフラ設備が空襲に対して脆弱であることが確認されました。

パイク作戦を提案したフランス首相ポール・レノー
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