日中戦争では、日本軍が個別の戦闘に勝利するも、広い中国全土を占領することは出来ず、「点と線」しか確保出来なかったと言われます。武漢作戦の結果は、まさにそんな日中戦争を象徴するようなものとなりました。
武漢作戦は日中戦争で行われた、日本軍による中国の経済的中心地であった武漢に対する攻略作戦です。中国側では武漢会戦または武漢保衛戦と呼ばれています。武漢作戦は1938年6月から10月末にかけて実施され、日本軍は武漢占領を成功させました。しかし、中国軍も重要都市である武漢の防衛に全力を尽くし、多数の兵力を投入してきたため、日本側も大きな被害を受けることになります。武漢は攻略したものの、中国はさらに奥地へと逃げて抵抗を続け、日本はこの戦いでの勝利を戦争終結に結びつけることはできませんでした。日中戦争は終結の糸口も見えないまま、長期化・泥沼化の様相をみせはじめ、日本軍は武漢作戦以降、中国大陸における大規模な攻勢作戦を控え、占領地を確保する持久戦略をとるようになります。
★中国の重要都市だった武漢
中国中部に位置する武漢は、現在では武漢市として一つの市になっていますが、もともとは漢口・漢陽・武昌の3つの都市に分かれ、武漢三鎮とも呼ばれていました。長江中流に面した武漢は水上交通を利用した交易の要所となっており、主要都市と鉄道線路で結ばれた鉄道連絡点でもあり、中部における交通の拠点となっていました。当時の中国では唯一といっていい工業都市で、兵器の製造を行う漢陽兵工廠を有していたほか、南京陥落後は中国の軍事委員会が疎開しており、実質的に中国の政治の中心地になっていました。このように、武漢は当時の中国において政治・経済・交通の重要都市であり、日本軍がここを占領すれば、中国の戦争経済に大きな打撃を与えて戦争に勝利できる可能性があり、逆に中国にすれば絶対に渡すわけにはいかない都市といえました。
★武漢作戦における日中両軍の戦力
日本軍は武漢作戦に畑俊六大将を司令官とする中支那派遣軍の第二軍・第十一軍の2個軍を投入します。兵力は日中戦争で最大規模となる30万人以上が動員され、後方支援まで含めると50万人近くの兵力が集められました。さらに、日本軍が武漢作戦に参加した艦艇は120隻、航空機は500機に上ります。日本国内では、巨額の戦費を捻出するため、5月5日に近衛文麿内閣が国家総動員法を施行しました。対する中国軍は重要都市武漢の防衛に総力を挙げ、蒋介石は周辺に60個師団を投入し、最終的に中国軍の兵力は110万人以上に増強されました。さらに艦艇40隻、航空機100機がこれに加わります。中国空軍にはソ連からの派遣された援華志願飛行大隊のソ連人パイロットによる戦闘機・爆撃機部隊も参加していました。