春の目覚め作戦は、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の終結が迫っていた1945年3月にドイツ軍がハンガリーで行った攻勢作戦です。別名「バラトン湖の戦い」とも呼ばれ、ドイツ軍最後の大規模な攻勢となりました。春の目覚め作戦は、本来なら首都ベルリンの防衛に回すべき強力の戦車部隊まで投入した、ドイツにとって乾坤一擲の作戦だったのですが、ソ連軍陣地の前に攻撃を阻まれて失敗に終わります。春の目覚め作戦により、ドイツ軍はそれほど重要といえない戦線で貴重な戦力を消費させる結果となり、敗戦を早めることになりました。
★ハンガリーにこだわるヒトラー
春の目覚め作戦がハンガリーで実行されたのは、ドイツの最高指導者であるヒトラーがこの場所に固執したためでした。ヒトラーにとってハンガリーは決して敵に奪われてはならない場所だったのです。ドイツにとって、ハンガリーには2つの重要な価値がありました。
ハンガリーの重要性1:ドイツの貴重な同盟国
当時のハンガリーは、ドイツにとって貴重な、残された枢軸同盟国でした。1945年のドイツは、東西から英米軍とソ連軍により挟撃を受け、絶望的な状況にありました。西では1944年冬のアルデンヌ攻勢(バルジの戦い)が失敗に終わり、すでに勝利の望みはなく、東では東プロイセンがソ連軍の侵攻を受けており、ベルリンに攻め込んでくるのも時間の問題といえました。
仲間であった枢軸国はほとんどがすでに連合軍に降伏したり、講和を結んだりしており、ドイツは孤立状態に陥っていました。すでにイタリアやフィンランドといったかつての同盟国は戦争から脱落し、東欧のルーマニアとブルガリアに至ってはソ連と講和を結んだばかりか、今度はソ連の同盟国となってドイツに宣戦布告してきたのです。そんななか、ハンガリーはいまだ枢軸国としてドイツとともに戦い続けている数少ない同盟国でした。
ハンガリーの重要性2:戦争経済に必要な油田の存在
ただ、ヒトラーは同盟国を守るためだけに攻勢を実施したわけではなく、ハンガリーにはドイツにとってもう1つの重要な価値がありました。ハンガリー西部にはナジカニジャ油田と呼ばれる石油産出地が存在しており、ここを失えば、ドイツは戦争遂行に必要な石油を手に入れることができなくなってしまうのです。ドイツが頼みにしていたプロイエシティ油田はルーマニアが枢軸から脱落したことで使用不能となっており、ドイツ国内の精油備蓄施設も英米連合軍のドイツ本土爆撃によって大きな損害を受けていました。ナジカニジャ油田の産出量はプロイエシティ油田と比べれば少ないものの、この時のドイツにとっては決して手放すわけにはいかないものだったのです。ヒトラーがハンガリーにこだわった理由としてはむしろこちらのほうが大きく、油田がなくなればドイツの戦争経済が崩壊し、戦争を続けられなくなると考えていました。
★第6SS装甲軍の投入
油田を守ると決めたものの、すでにその頃のハンガリーは絶望的といえる状況に置かれていました。首都ブダペストは2月に陥落し、ソ連軍は国土の半分以上を占領下におき、ナジカニジャ油田へと迫っていました。危機的状況を打開するため、ヒトラーは第6SS装甲軍をハンガリーに派遣することを決めます。第6SS装甲軍は、第1SS装甲軍団(第1SS装甲師団「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」、第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」)、第2SS装甲軍団(第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」、第9SS装甲師団「ホーエンシュタウフェン」)といった歴戦のSS(武装親衛隊)部隊で構成された、ドイツにとって虎の子といえる強力な部隊でした。第6SS装甲軍は「ラインの守り」作戦(バルジの戦い)に投入され、作戦の失敗後は後方で休養をとっていました。ドイツにとって貴重な機甲戦力である第6SS装甲軍は当然、首都ベルリンの防衛に回されると考えていた陸軍の将校たちは驚きました。すでにソ連軍はドイツ本土に攻め込んでおり、そんな時に一番強力な部隊を同盟国に派遣するなど、普通なら考えられないことです。参謀総長であったハインツ・グデーリアン上級大将は猛烈に反対しましたが、ヒトラーは「戦車や航空機がガソリンなしで作戦行動を行えるとお思いか」と言って、自らの考えを押し通しました。さらに、ヒトラーは第3SS装甲師団「トーテンコプフ」や第5SS装甲師団「ヴィーキング」を含む第6軍や第13SS武装山岳師団「ハントシャール」や第16SS装甲擲弾兵師団「ライヒスフューラー」を含む第2装甲軍、フェルトヘレンハレ装甲軍団やユーゴスラビアのE軍集団などもてる限りの戦力を投入します。ハンガリーにはドイツ軍30個師団が展開し、そのうち11個師団が装甲師団になっていました。これらの戦力によってソ連軍を押し戻し、ハンガリー戦線での主導権を取り戻すとともに、ヒトラーがなによりも重視するドイツの戦争経済を守り抜き、そして、上手くいけばブダペストの奪還を目指すつもりでした。春の目覚め作戦はまさに、ドイツ軍にとって起死回生の一大攻勢といえるものだったのです。
★実は弱体だった第6SS装甲軍
ドイツ軍にとっての切り札と呼ぶべき装甲部隊を投入した春の目覚め作戦ですが、このときの第6SS装甲軍の実情はエリート部隊のイメージからはかけ離れたものでした。第6SS装甲軍には幾多の激戦を経験したSSの精鋭装甲師団が勢ぞろいしていましたが、ノルマンディ上陸以降の西部戦線の戦いやハンガリーでの戦闘により、多くの将兵が戦死または捕虜になっており、人員の質の低下が進んでいました。補充のために送られてくるのは海軍や空軍出身の地上戦闘の経験もない兵士がほとんどで、度重なる空襲のために訓練もろくにできない状態でした。それでも補充が来るだけましなほうで、なかにはブダペストを巡る戦い以来、一度も補充を受けていない部隊もありました。さらに、戦闘に必要な弾薬や燃料など、基本的な物資すらも不足していました。ヒトラーが戦局の挽回に大きな期待をかけていた精強なSS部隊は、もはや過去の存在になっていたのです。
★南風作戦と見抜かれた攻勢計画
ドイツ軍は春の目覚め作戦に先立ち、ハンガリーのフロン川西岸のソ連軍が築いていたグラン橋頭保への限定攻勢「南風(ズードヴィント)作戦」を実施しました。南風作戦は、ドイツにもはや反撃する能力は残されていないと考えていたソ連軍の虚を突く形となり、ドイツ軍はソ連の橋頭保を着実に駆逐していきました。このときのドイツ軍はまるで戦争初期のような順調な進撃をみせ、南風作戦は1945年のドイツにとって唯一といえる成功をおさめました。ソ連軍はフロン川西岸の橋頭保を起点にハンガリーから一気にオーストリアの首都ウィーン、さらにはチェコの首都プラハまでを狙うウィーン攻勢を計画していました。しかし、南風作戦の成功により、ソ連軍はウィーン攻勢を遅らせることになります。ソ連軍は、南風作戦に使われた強力なドイツ軍部隊は、アルデンヌ攻勢のあと、後方に引き揚げて居場所が不明となっていた第6SS装甲軍に間違いないと考えました。ドイツ最強のこの部隊が次にどの戦線に投入されるかはソ連だけでなく、米英も含めた連合軍全体が警戒するところでしたが、南風作戦の成功は図らずも、ソ連軍に第6SS装甲軍がハンガリー戦線に送られてきたことを教える結果になったのです。そのため、南風作戦の勝利もドイツにとって必ずしもプラスになったとはいえません。ドイツが近々、ハンガリー方面で大規模な攻勢に出るつもりだと考えたソ連軍は、ウィーン攻勢の準備を進めつつ、バラトン湖周辺にパックフロントと呼ばれる防御陣地を形成してドイツの攻撃に備えました。
★春の目覚め作戦
春の目覚め作戦は、1945年3月6日に発動されました。第6SS装甲軍と第6軍がバラトン湖北部で、第2装甲軍がバラトン湖の南ナジカニジャ油田の前面から、そして、南のユーゴスラビアからはE軍集団が、それぞれに攻勢を開始します。第2装甲軍とE軍集団の攻勢にはそれぞれ「氷粉作戦」「森の悪魔作戦」の名称がつけられており、これらの攻勢作戦も春の目覚め作戦の一部となっていました。ドイツ軍の作戦計画は、北と南からの攻撃によりソ連軍を殲滅する、かつてのツィタデレ作戦(クルスクの戦い)に類似したものでした。春の目覚め作戦はツィタデレ作戦の縮小版といえます。そして、その結果もクルスクの戦いとよく似たものになりました。ドイツ軍の攻撃はソ連軍の対戦車陣地に阻まれ、わずかな距離しか前進できずに終わります。春の目覚め作戦では天候もドイツ軍の進撃を邪魔する大きな要因となりました。悪天候に加えて、春の訪れはハンガリーの雪原を泥の海へ変えました。兵士たちは、兵員輸送車が泥の中で立ち往生したために、徒歩で移動せざるを得なくなり、敵と戦う前に泥濘と戦うことを強いられました。さらに、泥にはまり込んで動けなくなる戦車も続出します。ハンガリーは鉄道輸送が不十分で、前線へ向かう道路が1本しかなかったことも合わさったことで、ドイツ軍は作戦開始前の移動時点から大きな混乱に陥り、将兵たちは疲弊していました。このような状態で強行された春の目覚め作戦が上手くいくはずもなく、悲観した一部の部隊では攻撃開始を遅らせるなどサボタージュも行われたといわれます。3月15日まで攻勢を続けたドイツ軍でしたが、進撃距離は最大でも15キロほどと成功とは程遠いものでした。そして、3月16日午後、ソ連軍の第3ウクライナ方面軍によるウィーン攻勢が開始されると、もはや春の目覚め作戦の継続は不可能となります。
★ヒトラーと親衛隊の決別
春の目覚め作戦の失敗とソ連軍の攻勢は、ヒトラーと彼の軍隊である武装親衛隊にとっての大きな事件を引き起こしました。この戦いを機に、武装SSは忠誠を捨て、ヒトラーと決別することになります。ソ連軍はバラトン湖北東のブダペスト方面から攻撃を行い、第6SS装甲軍の背後を脅かしました。ソ連軍の意図を察知した第6SS装甲軍は退路を断たれることを恐れ、ヒトラーの死守命令を無視して独断での退却を開始します。これを知ったヒトラーはSS部隊が死守命令を激怒し、第6SS装甲軍の司令官ヨーゼフ・ディートリヒSS大将にSS師団の将兵全員から親衛隊の誇りである袖章を剥奪する命令を出しました。この命令は多くのSS将兵たちを失望させ、ヒトラーへの忠誠心を根本から揺るがしました。彼らは「総統の誕生日に油田をプレゼントしよう」を合言葉に必死に戦ってきたのに、ヒトラーは前線の様子など、なにも知らなかったのです。兵士たちは自分たちの誇りであったはずのSSの袖章を剥ぎ取って捨て、激怒したディートリヒも自分の袖章と勲章を抗議文とともにヒトラーに送り返しました。その後、ディートリヒは独断で第6SS装甲軍をオーストリア方面へと転戦させ、ソ連軍がベルリンに迫ってもヒトラーのもとへ向かおうとはしませんでした。ベルリンの戦いに参加したSS部隊は外国人で構成された義勇兵ばかりで、ヒトラーはすでにドイツ人からも見放されていたといえます。かつてヒトラーに忠誠を誓ったSS部隊は、この事件の後、二度とヒトラーのために戦うことはなかったのです。
春の目覚め作戦は、弱体化したドイツ軍戦力や物資の不足、泥濘など多くの悪条件のなかで強行されましたが、作戦は最初から行き詰まりを見せ、ドイツ軍になんの戦果ももたらすことなく終わりました。春の目覚め作戦はクルスク戦のスケールダウンといえる攻勢作戦で、ソ連軍の防御陣地によって攻撃が頓挫した点も似通っており、ドイツ軍はツィタデレ作戦の失敗と同じ轍を踏んだといえます。さらに、春の目覚め作戦はヒトラーと親衛隊の破局というドイツにとって思ってもいなかった事件も引き起こしました。春の目覚め作戦は、重要度の低いハンガリー戦線に強力な部隊を送ることで戦力を無駄に消耗させる結果となり、ドイツの敗北を早める一因になりました。