生産時には時代遅れになっていた一式中戦車チヘ

 一式中戦車は、ノモンハン事件で明らかになった日本戦車の問題点のうち、九七式中戦車の防御力と機動力を強化することを目的として、1940年から開発が始まりました。 その時点では妥当な進化といえるスペックでしたが、新戦車開発自体の優先度が低かったため資材も予算も後回しにされた結果、完成も量産も遅れてしまい時代遅れの戦車となったのです。
 今回は実戦にも参加することなく終戦を迎えた一式中戦車チヘの開発と実力を追いながら、敗戦必死だった日本の生産能力の限界を解説します。

ノモンハン事件と一式中戦車チヘ

 一式中戦車チヘの元をたどれば九七式中戦車チハになるのですが、その九七式中戦車は1939年6月に参戦したノモンハン事件で問題点が露わになっています。
 その問題点に対する答えが一式中戦車です。まずはノモンハン事件で問題となった日本戦車の弱点と、日本陸軍がどのような対策を考え実行したのか見ていきましょう。

ノモンハン事件で見えた日本戦車の弱点

 ノモンハン事件では4輌の九七式中戦車が参戦したのですが、もともと対戦車戦や対戦車砲への防御を考慮されていなかったことで、あまりにも弱点が多いことが判明しました。
 まず攻撃力でいえば、歩兵や歩兵陣地を攻撃することのみ想定していた短砲身の57mm戦車砲では、敵戦車にほとんど歯が立たないという事実です。砲弾の初速が遅いうえ、徹甲弾を装備していなかったことから、ソ連の戦車に命中しても跳ね返される始末でした。
 また防御面でもM1937 45mm対戦車砲に容易く撃ち抜かれるほか、技術不足によるリベット留め装甲は明らかに劣っていました。
 おりしもヨーロッパ大陸では、同盟国ドイツが機甲部隊による電撃戦を成功させ、陸軍戦術に革命を起こしていた時期で、日本陸軍も真剣に対戦車戦を考えなければならなくなりました。

 九七式式中戦車の新砲塔

 敵戦車への攻撃力向上には、砲弾の初速を上げる必要があります。そのためにあえて57mmから47mmに下げてでも、高初速の一式47mm戦車砲を採用した九七式中戦車用の新砲塔を開発しました。
 弾丸の初速は、57mm砲の349.3m/sから倍以上を達成し、1941年8月から九七式中戦車へ47mm戦車砲を採用した新砲塔への改修・換装が行われています。
 これによって砲弾の貫徹能力は上がり、太平洋戦争開戦時にアメリカ軍の主力戦車だったM3軽戦車相手には十分な戦闘力を確保しました。

防御力と機動力強化のための新車体

 新砲塔を採用し攻撃面の問題はいったん解決されましたが、九七式中戦車の防御力に関する問題はそのままでした。前面から側面にかけての装甲厚が20mm~25mm程度で、敵の対戦車砲に容易く貫通されるうえ、装甲をリベット留めしているため被弾時にちぎれた鋲が車内の乗員を殺傷する点も問題視されていました。
 これらを解決するため開発に着手されたのが、後の一式中戦車チヘです。計画時から九七式中戦車の新砲塔と同じ47mm戦車砲を搭載する予定だったので、ほぼ車体のリニューアルといえるものです。
 主な九七式中戦車からも変更内容は、「車体及び砲塔の前面装甲を50mmにする」「装甲を溶接と平面リベットで固定」「生産性向上のため面と直線の多用」「エンジン出力の向上」となっており、一式中戦車の防御力向上に寄与しています。

新砲塔の改良と乗車定員の変更

 一式中戦車へは、九七式中戦車の新砲塔に改良を加えたものが搭載されました。主砲の口径は47mmと同じですが、照準方式や発火方式を変更した一式47mm戦車砲Ⅱ型になっています。
 また九七式中戦車では、乗車定員が4名で車長が主砲の装填手を兼ねていたのを、乗車定員を5名とし車長の負担を軽減し命令を出しやすくしました。

いっこうに進まない一式中戦車の開発と生産

 一式中戦車チヘの設計内容を見るかぎり、九七式中戦車を正常進化させた妥当なものだといえます。ところが1940年頃から計画が進められていながら、結局のところ実戦への投入は間に合わず終戦を迎えることになってしまいました。
 ここからは、いっこうに進まなかった一式中戦車チヘの開発と生産と、絶望的だった日本の生産能力を考えてみましょう。

絶望的な資源不足と生産兵器の優先順位

 関東軍の暴走により支那事変が始まり、日本陸海軍の不協和音も影響し泥沼化していた大陸での戦争により、日本はアメリカから経済制裁(封鎖)を受けていました。
 1940年1月から屑鉄や高オクタン価のガソリンなどの制限からはじまり、仏領インドシナへの日本進軍などのたびに制裁が強化されていき、対米開戦に追い込まれることになります。
 このような状況下で兵器生産の優先順位は、航空機や艦船などになるのは当然のことで、一式中戦車の開発にかかる資材も予算も後回しになりました。

一式中戦車の開発状況と陳腐化

 1940年から開発が始まった一式中戦車は、資源や予算の都合に加え新技術採用にも手間取り、いっこうに進まない状況になっていました。試作車が完成したのが1942年9月で、各種試験が完了したのは1943年6月にまでずれ込んでいます。
 量産が開始されたのは1944年2月からですが、アメリカ軍が太平洋戦線に投入し始めたM4中戦車(シャーマン)に対して47mm戦車砲が威力不足であることが問題になってきました。
 あまりに送れた一式中戦車の開発により、量産が始まったときには過去の兵器になってしまっていたのです。そこで考え出された解決策が一式中戦車の車体に、より大きな主砲を搭載することで、これが後の三式中戦車チヌとなります。

一式中戦車の生産数と終戦時

 一式中戦車は、1944年2月から1945年2月までに170輌(試作車を含む)生産されました。1945年2月で終わっているのは、予定生産数を三式中戦車へ振り向けたためです。
 大戦末期で島嶼部に輸送する手段も失われた一式中戦車は、実践に参加することなく本土決戦に備え内地に留め置かれました。歴史にIFはありませんが、仮に実戦投入できたとしても影響はなかったでしょう。制空権を握られた状況での地上戦は歴史の示すとおりです。

まとめ

 戦時における技術の進歩は早いといわれますが、少なくとも日本陸軍の装備については当てはまりません。一式中戦車は、その着想から量産開始まで3年以上の年月を要しており、戦時において陳腐化するのは自明の理といえます。
 むしろその実力をさらけ出さずにすみ、すなわち本土決戦などという無謀な戦闘が発生しなかったことは、日本にとって幸いなことでした。


主要参考資料
「日本陸軍一式中戦車(チヘ)」 ・・・ 高橋昇

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