九七式式中戦車チハは、1938年に量産が開始されてから、第二次世界大戦の終戦まで日本陸軍の主力戦車であり続けました。同時期の他国の戦車の能力向上に比べ、著しく見劣りする九七式式中戦車チハですが、それには当時の日本特有の事情が影響しています。
そこで後継戦車の生産が遅れ、九七式式中戦車チハが大戦中先頭に立ち続けなければならなかった理由について考えてみましょう。
帝国陸軍の思想と九七式式中戦車チハ
九七式式中戦車チハは、日本初の国産戦車である八九式中戦車(チイ)の運用上の問題点を解決するため1936年に開発が始まりました。チハとは中戦車の「チ」とイロハの「ハ」、すなわち3番目の中戦車を意味します。
当時の日本陸軍が九七式式中戦車に求めた要求性能と、想定していた運用方法をみることで、九七式式中戦車が他国の戦車と比べ時代遅れになった理由が分かります。
九七式式中戦車に求められたもの
1931年の満州事変以降、実戦に投入されていた八九式中戦車は、運用上いくつかの問題点が指摘されており、戦地での改修作業だけでは対応しきれなくなっていました。
無限軌道車(キャタピラ車)でありながら悪路による足回りの故障や、なにより最大でも25km/h(実践の不整地では10km/h前後)という低速度で、九四式軽装甲車や九五式軽戦車が投入されるようになると随伴ができないことが致命的でした。
開発が始まった新型中戦車には、「速度性能の向上」「溶接構造の検討」「傾斜装甲を取り入れた車体設計」「八九式中戦車と同等の主砲」が求められました。1936年7月の軍需審議会で2つの仕様が検討され、大出力・重装甲とする甲案(チハ)を三菱重工業に、より軽量化を重視する乙案(チニ)を大阪砲兵工廠へ、それぞれ設計・試作を命じました。
チハが採用された九七式式中戦車
2案で進められた次期中戦車ですが、参謀本部側は予算が限られている現状を鑑み「安価で多量配備できる」乙案を押していました。一方で実際に運用する現場サイドは「甲案しかあり得ない」という考えだったのですが、最終的には甲案の採用でした。
甲案の試作車2輌が完成したのは1937年6月ですが、その翌月に盧溝橋事件が発生し支那事変に拡大したことから軍事予算が拡大し、結果として高価な甲案が九七式式中戦車として採用されたのです。
八九式中戦車に引き続き空冷ディーゼルエンジンが採用され、同時代の他国戦車と比べて特徴的な点といえます。ただ当時の日本は非常に技術水準が低く、エンジンだけで1.2tもの重さになり、それでいて150馬力前後の出力にとどまりました。
また溶接技術にも難があり、車体の大部分は従来と変わらぬリベット留めとなっています。しかし装甲厚は当時として平均的なもので、とくに見劣りするものではありませんでした。
課題だった走行速度は、平坦路上であれば40km/h程度はだせたので、基準を満たしたといえるでしょう。主砲は八九式式中戦車と同じ短砲身の57mm戦車砲が搭載され、敵陣地や兵士を攻撃するための榴弾威力を最重視したものです。
正式採用された九七式式中戦車は1938年から1944年まで延べ2,123輌が生産されました。
日本陸軍における中戦車と軽戦車の役割
九七式式中戦車は、先に正式採用されていた九五式軽戦車とともに日本陸軍の機甲戦力の中心になりました。当時の日本陸軍の想定では、九五式軽戦車が主戦力で火力不足を補完するのが九七式式中戦車で、あくまで歩兵支援が主任務です。
攻撃対象も歩兵や陣地だったので、対戦車戦はあまり考慮されていません。事実1939年3月の戦車研究委員会でも「将来戦に於いては対戦車戦闘のやむなき機会多きを顧慮す」程度の認識でした。
支那事変の戦場では、このような戦車運用で問題はなかったのですが、これが時代遅れになるのはすぐにやってきます。1939年6月に起きた第二次ノモンハン事件と、同年9月に始まったドイツによるポーランド侵攻で展開された電撃戦で、戦車運用の常識が大きく変わったのです。
物資不足や技術の遅れと優先順位が低かった戦車
歩兵支援が最大の任務だった九七式式中戦車チハですが、実際の戦場では想定はしていたものの対戦車戦も発生しています。そして実践の中で問題点も浮かびあがりました。
しかし一部の改良を施しながら、九七式式中戦車が機甲戦力の主力であり続けます。その理由は、当時の日本の切実な問題のしわ寄せが陸上兵器に影響したことによります。
ここからは陳腐化した九七式式中戦車を、だましつつ使い続けなければならなかった事情を見ていきましょう。
ノモンハン事件で得た戦訓
ノモンハン事件では、日本陸軍として初めての大規模な戦車戦力が投入されました。九七式式中戦車4輌、八九式中戦車34輌、九五式軽戦車35輌の計73輌です。九七式式中戦車チハにとってもこれが初陣でした。
7月3日に戦闘を開始し7月10日には戦場を引き上げたことから、戦車隊に対する悪評の原因になってしまいました。これは戦車隊の損失が29輌にもなったことから、機甲戦力の壊滅を懸念した関東軍司令部による撤退命令のためです。
九七式式中戦車も1輌が破壊されました。走行中の履帯にピアノ線鉄条網が絡まり、走行不能になったところを対戦車砲で砲撃されたのです。装甲不足が明らかになったほか、ソ連軍戦車と比べ主砲の射程も威力も劣っており、治金技術の低さから砲弾の硬度も不足し、対戦車戦では圧倒的に不利なことが判明しました。
一方でガソリンエンジンと比べ、発火しにくいディーゼルエンジンの優位性だけは証明されたといえるでしょう。
物資不足と低い技術力
ノモンハン事件では、九七式式中戦車の弱点ばかりでなく、日本陸軍がソ連軍と比べて圧倒的に機械化が遅れていることが露呈しました。当時列強各国の機械化が急速に進んでいた背景には、自動車産業の発展があったのですが、日本は立ち遅れていました。
技術力でも見劣りし、当時の精密工作機械のほとんどはドイツなどからの輸入に頼り、自前では作ることができなかったのです。また自業自得とはいえ、関東軍の暴走から始まってしまった支那事変が泥沼化し、アメリカなどによる経済封鎖の影響で戦略物資が枯渇しつつありました。
開戦の機運が高まるにつれ、軍需生産の優先順位は艦船や航空機にせざるをえず、たとえ九七式式中戦車が時代遅れとなっていても、後継戦車の開発は後回しにされています。
本格的な戦車戦がなく問題化せず
もし日本陸軍が想定していた対ソ戦が行われていたら、九七式式中戦車の問題点の解決が急務になっていたでしょう。しかし太平洋戦争の地上戦は、島嶼部や東南アジアのジャングルが主戦場で、対戦車戦はほとんどありませんでした。
1944年6月にサイパン島でそのときが訪れますが、戦車30輌で仕掛けた野戦ではアメリカのM4中戦車(シャーマン)や対戦車砲、新兵器のバズーカ砲によって返り討ちにあい、あえなく全滅する事態になっています。
その後もまともにぶつかっては勝負にならないので、奇襲戦や偽装するなど工夫を凝らしながら、終戦まで戦い続けました。
唯一の効果的な改良
ノモンハン事件の教訓が生かされ、九七式式中戦車がうけた一番大きな改良が「新砲塔」です。初速の遅い57mm砲からより貫徹力のある47mm砲へ換装して、当時太平洋戦線でアメリカ軍の主力だったM3軽戦車には威力を発揮しました。
リベット留めから溶接への変更や、防御力の向上などの対策は後継の「一式中戦車」で実現しましたが、戦車へ回す物資が不足していたため部隊配備が始まったのは1944年になってからで、実戦に参加することはありませんでした。
まとめ
九七式式中戦車チハは、第二次世界大戦で飛躍的な進化を遂げた各国の戦車と比べ、あまりにも見劣りがします。九七式式中戦車チハが15tの重量に47mm砲を搭載していたのにたいし、同盟国のドイツ陸軍のティーガーⅡは約70tの重量に長砲身の88mm高射砲を搭載していたのですから、差は明らかです。
周囲を海で囲まれた海軍国だったことから、敗戦の原因となるような重要な兵器でもなく、見劣りしながらも終戦まで「使えてしまった」というのが九七式式中戦車チハの真実です。
主要参考資料
「戦車隊よもやま物語」 ・・・ 寺本弘
「日本軍中戦車」 ・・・ 真出好一
「ノモンハンの真実 日ソ戦車戦の実相」 ・・・ 古是三春