★三式潜航輸送艇の開発
三式潜航輸送艇の開発が始められたのは、1943年3月のことで、陸軍第七技術研究所の塩見文作技術少佐が中心となって進められました。塩見中佐は日本陸軍のなかで、潜水艦通といえる貴重な人物でした。もともとソ連軍の潜水艦に対抗するため、自ら西村式豆潜水艇に乗り込み日本海で水中音響伝搬の研究を行っていたことがあり、三式潜航輸送艇の開発にはうってつけの人物だったのです。しかし陸軍にとってはじめての潜水艦開発には多くの困難が伴うことになります。開発は海軍に秘密で行われ、また主要な造船所は海軍の船を作るだけで限界だったため、機関車工場や鉄工所、機械工場、ボイラー工場などが使用されました。三式潜航輸送艇は、陸軍により「決戦兵器」とされ、開発・建造にあたっては航空機の次に高い優先順位を与えられていました。それだけ、陸軍にとって補給の問題は重要であり、輸送用潜水艦の建造が急務とされたのです。
三式潜航輸送艇は、船体を3ブロックに分割して電気溶接によって組み立てる方式で簡易な設計のため生産性が高くなっていました。陸軍ではこの生産性を活かして三式潜航輸送艇を、1943年中に200隻、最終的には400隻以上建造することを目標としていましたが、実際に終戦までの完成したのは38隻にとどまっています。後に海軍の協力を受けて大型の「マルゆⅡ型(潮)」の建造も計画されますが、未完成のままで終戦を迎えました。
★三式潜航輸送艇の誕生と潜航試験
1943年12月8日、三式潜航輸送艇の第1号が完成して陸軍に引き渡されました。当初、海軍に秘密で陸軍だけで開発がはじめられた三式潜航輸送艇ですが、途中から海軍にも存在を知られることとなります。海軍でも、輸送に苦慮する陸軍の立場に同情的な見方が多かったのですが、なかには否定的な声もあり、塩見少佐が「このようなことを陸軍にやらせるのは、海軍、あなた方の責任ですぞ」と発言したこともありました。1月30日に山口県柳井湾で実施された1号艇の潜航試験には海軍関係者も招かれています。このとき、三式潜航輸送艇が停止したまま潜航したのを見て、陸軍関係者は「潜った」「潜水成功」と万歳三唱したのに対して、海軍関係者は「落ちた(沈没した)」といってどよめきました。三式潜航輸送艇の潜航方式は沈降型といわれ、西村式豆潜水艇を参考したもので、停止姿勢のままで潜航するようになっていました。水上航行しながら潜航する海軍の潜水艦とはまったく違っていたため、海軍関係者には沈没したと誤解されてしまったのです。はやまった海軍将校のなかには「演習中止」を口にする人もいたといいます。陸軍と海軍での潜水艦設計の違いから、こうした対照的な構図が見られましたが、潜航試験自体は成功しており、陸軍潜水艦、三式潜航輸送艇の誕生となりました。
★三式潜航輸送艇の性能
三式潜航輸送艇の性能は海軍の潜水艦と比べると全般的に劣っていました。水中での最大速力は4ノットで、海軍の潜水艦が8ノット程度だったのと比べると半分ほどの速力しか出すことができません。これは、水中で潜水艦の動力となる電力を供給する蓄電池の性能に由来するものでした。三式潜航輸送艇は、輸送用で敵との戦闘は考えられておらず、潜航中に襲撃を受けた場合には、潜航してじっと動かずに隠れていることが想定されており、水中速力はこれでも十分とみなされていたようです。しかし、水中行動力の低さは三式潜航輸送艇の運用上でも制約になった部分で、輸送作戦中に時間を短縮するため、危険を冒して水上航行を行う場面も見られました。武装は基本的に甲板に搭載された戦車砲改造の37ミリ砲1門だけですが、なかには機銃を搭載した艇もあります。一部には乗降用のハッチを大きくして切り込み隊の陸戦要員を乗せられるようにした艇もありました。艇内には空気清浄機や冷房装置、冷蔵庫なども備わっていましたが、居住性はあまり良いとはいえず、トイレは石油缶に重油を張ったものが使用されていました。ただ、トイレについてはバケツやゴムの袋であったなど、他にもいろいろな話があります。これは建造の時期や艇ごとに、武装や設備などの細かな仕様が異なっていたためで、これも三式潜航輸送艇の特徴といえます。
★陸軍の潜水艦乗組員
日本陸軍の潜水艦乗組員は、すそが短く、ズボンのすそが広がっていて、ポケットが多くついている萌黄色の専用の作業着を着用していました。ひさしが短く平らな帽子を被り、艦内で音を立てないよう布製の靴が支給されます。乗員の選抜に明確な基準はありませんでしたが、操縦技術や戦車砲の扱いに慣れていることから元戦車兵が多かったといいます。潜水艦乗員は航空機のパイロットに準ずる待遇を与えられ、食事などは一般の陸軍兵より良いものを支給され、カルピスや羊羹などももらうことができました。三式潜航輸送艇に配属された陸軍の将兵の数は終戦までに3500名ほどとされ、伊予の三島に編成された潜水輸送教育隊で約3か月の訓練を経て陸軍潜水艦の乗組員となりました。海軍では通常、潜水艦の乗組員として一人前になるには5年はかかるといわれていたので、かなり短期での育成といえます。また、海軍の協力のもと、艇長などの幹部要員に対しては潜水学校への入港が認められ、3か月にわたる専門教育が実施されました。
★三式潜航輸送艇の戦歴
もともと太平洋での輸送作戦を考えて建造された三式潜航輸送艇でしたが、実際の輸送作戦に投入されたのは1度だけでした。1944年5月、フィリピンのマニラへと派遣命令をうけた3隻のマルゆ(1号艇・2号艇・3号艇)が宇品島を出撃します。当時のフィリピンは、南方資源地帯を守るための重要な拠点であると同時に、米軍の侵攻も予想される決戦場でもありました。三式潜航輸送艇にとって初めてとなる外洋航海は苦労も多く、1号艇では不調や故障が続出し、2号艇と3号艇は台湾の高雄で修理のため1週間ドック入りを余儀なくされています。途中、台湾近海でこのうちの1隻が哨戒中の米潜水艦によって発見される出来事がありました。しかし、このとき米潜水艦は、三式潜航輸送艇が船尾に旭日旗ではなく日の丸を掲げていたことや白昼にも関わらず堂々と浮上航海していたことから、本当に日本海軍の潜水艦かどうかを疑いました。結局、明確に正体が分からなかったため、米潜水艦はマルゆを「国籍不明」の潜水艦と判断し、追尾と監視は行ったものの攻撃を行うことはありませんでした。7月18日、3隻の三式潜航輸送艇は51日におよぶ航海を終えてマニラへと到着します。しかし、ここでは今度は味方から、謎の潜水艦として見られることになりました。ある海軍の艦艇はマルゆに向けて「なんじは何者なるや」と信号を送りました。
マルゆが「帝国陸軍潜水艇なり」と返答すると、しばらく沈黙があり「潜航可能なるや」との信号が送られてきました。さすがのマルゆ艇長もこれにはカチンときて「返答の要を認めず」と返したそうです。
★2号艇のオルモック強硬輸送
フィリピンへ向かった三式潜航輸送艇のうち、実際に輸送任務についたのは2号艇の1隻のみでした。マニラに到着した3隻はみな船体のどこかに不調や故障を抱えており、キャビデ港で緊急修理を行った後、なんとか航海のできる状態になった2号艇にレイテ島オルモックへの輸送任務が命じられます。1944年11月27日深夜、2号艇は食料・弾薬40トンと揚陸の荷役要員14名を乗せて夜闇に紛れてレイテ島を目指しました。このとき、2号艇は航行はできても潜航装置は故障しており、潜水艦なのに潜水ができない状態でした。翌28日午前1時、水上航行していたところをボンソン島の北で大型駆逐艦4隻(ウォーラー、レンショー、ソーフリー、プリングル)からなる米海軍第43駆逐隊につかまってしまいます。米駆逐艦は主砲や機銃で攻撃を行い、敵の照明弾が2号艇を照らし出しました。2号艇は速度を落とすことなく、37ミリ砲で応戦しながらそのまま突っ切ろうとしましたが、敵の集中砲火を浴びることになり、最後には撃沈されて生存者もいませんでした。
★初めての輸送成功と本土での輸送作戦
一方、マニラに残った1号艇と3号艇は28日にレイテ島へとたどり着き、精米600梱、救急食50梱、バッテリー30梱、大発動艇修理部品を届けることに成功しています。レイテ島にとって17日ぶりの補給であり、三式潜航輸送艇による最初の輸送成功例でした。1号艇・3号艇はその後空襲によって失われ、生き残った乗組員はルソン島での陸上戦闘に投入されて終戦まで戦い抜きました。他の三式潜航輸送艇は、三島基地を中心に本土近辺での輸送任務に従事していましたが、こちらでも敵潜水艦と間違われて味方の艦船から攻撃を受けたことがありました。終戦間際の1945年7月、困難になっていた朝鮮海峡での輸送に従事することになった三式潜航輸送艇部隊は、山口県の萩への移動途中で終戦を迎えています。終戦時までに失われた三式潜航輸送艇は戦没が4隻、事故による喪失が1隻となっており、乗組員の戦死者は300名ほどとみられています。陸軍が潜水艦を保有するという三式潜航輸送艇の開発は、日本における陸軍と海軍の対立の象徴のように言われることもありますが、実際には日本軍がいかに海上輸送に苦しんでいたかをあらわす兵器だったといえます。三式潜航輸送艇は大きな活躍を残せたとはいえませんが、補給に苦しむ日本陸軍にとっては必要性があり、当時の状況からすれば建造せざるを得ない兵器であったといえるでしょう。