友情のメダル ~ 由来とその真相 ~

上の写真を見ていただきたい。これはオリンピックのメダルである。でも少し変わっている。何と銀メダル銅メダル半分に割って繋ぎ合わせたメダルなのだ。

どうしてこんなメダルがあるのか?今回はそれを探っていこう。

●第11回ベルリンオリンピック開幕

1936年にナチス政権下で第11回ベルリンオリンピックが開催された。当初ナチス総統アドルフ・ヒトラーはオリンピック開催について「『ユダヤ人の祭典』である」として反対していたが、側近から「大きなプロパガンダ効果が期待できる」と説得され、開催することに同意した。その後ヒトラーはオリンピックをアーリア民族の優秀性と自分自身の権力を世界中に見せつける絶好の機会と位置づけ、ベルリンだけでなくドイツが国の総力を挙げて開催準備を進め、短期間でオリンピック・スタジアム(オリンピアシュタディオン)や選手村、空港や道路、鉄道やホテル、さらに当時まだ実験段階であったテレビ中継などの受け入れ態勢の整備が進められた。人種差別政策もオリンピック開催実現のため一時凍結となった。

また、オリンピックの象徴的な催しである聖火リレーがベルリンオリンピックから初めて行われた。そしてこれが第二次世界大戦前の最後のオリンピックとなってしまうのである。

●友情のメダル

トラック競技の一つである棒高跳、そこに、西田修平、大江季雄、安達清の3人の日本人選手が挑戦した。先輩格である西田が「自分の実力をしっかり出せるよう頑張ろう」と2人の肩をポンと叩いた。大江も「いっちょ世界記録を出してアメリカの選手をびっくりさせてやりましょうか?」3人の中で大柄な安達は「3人そろってメダルが取れたら最高ですね」と言った。3人は心強い仲間であると同時に同じ競技に情熱を燃やすよきライバルでもある。

写真左から 西田修平、安達清、大江季雄

1936年8月5日の正午から予選が行われた。ベルリンは北海道よりも北に位置するので8月だというのに肌寒い日だった。無事に予選を通過した3人は、決勝でアメリカの3選手と相見えることになった。「名人」メドウス、体格のいいセフトン、そして世界記録保持者のグレーバーである。この3人はともに背が高く、体格が良い。棒高跳で背の高い選手はポールの高い所を持てるので非常に有利とされている。午後4時、決勝が始まった直後に激しい雨が降り出し競技は一時中断、再開後も強い西風が吹き気温がグングン下がる中、バーの高さが4m15㎝の時点で参加した16選手のうち残ったのは西田、大江。セフトン、グレーバー、メドウスの4選手だった。

午後6時、バーの高さは4m25㎝になった、気温は13度。セフトンと西田は1回目で成功し、メドウスと大江は2回目で成功した。グレーバーは試技3回とも失敗し、脱落。午後8時、気温は11度。競技が始まって8時間が経過し「試合が長引けば体力のあるアメリカが有利だ、ここは一発勝負に出るしかない」と考えた西田は大江に「4m30㎝はパスして4m35㎝でどうだ?」と告げた。4m30㎝は当時の日本記録であり、4m35㎝は2人とも未知の領域であったが、大江は「やりましょう」ときっぱり答えた。これを知ったメドウス、セフトンの2人は日本人選手の2人の強い気概に驚いたが後には引けない、と飛ぶことを決意する。

1回目は全員が失敗し2回目、メドウスが見事に成功し、残りの3選手は失敗したため、メドウスの金メダルが確定した。残りの銀と銅を3人が争う。4m35cmから体力が限界の中、4m15㎝の時にセフトンが失敗、西田と大江が成功し、西田と大江2人が互いに銀・銅を争う事に。しかし2人は「お互いに限界まで戦った。同記録なら2人とも銀だからこれ以上争う事は無い」と固い握手を交わした。しかし、大会直前に「先に成功した選手の順位が上」という新しいレギュレーションによって4m25cmを1回目で成功した西田が2位、大江が3位となった。しかし表彰式の時に西田が大江に2位の表彰台を上げさせ、西田は3位表彰台に立った。ベルリンから帰国し、銀メダルを手にした大江は誇らしい気持ちとスッキリとは割り切れない気持ちとが入り混じっていた。

 棒高跳の表彰式 手前より西田、メドウス、大江

「僕と西田君はどちらが勝ちでも負けでもないんだ!」

そう思った大江は銀メダルと銅メダルを2つに切って繋ぎ合わせたメダルを作ろうと決めた。西田と大江、競技の上ではライバルである2人の熱い友情が世界にただ一つのメダルを生み出したのである。

●「友情のメダル」の真相

と、これが「友情のメダル」と言われる感動的なエピソードで「美談」として語り継がれているワケであるが、実際はというと…….

まず、西田が大江に2位の表彰台を上げさせたのは、西田の単なる「都合」であった。

西田曰く「ふたりは同等、どっちが銀メダルでも銅メダルでもよかった。僕はその前のロサンゼルス・オリンピックで2等になって銀メダルをもろうてたから、もういいと思った。それに次の東京で開くオリンピックで金メダルをとれば、金、銀、銅とそろうことやし

そして、銀と銅の2つのメダルを繋ぎ合わせて作ったメダルについては、「家族」が大きく影響している。

大江が受け取った銀メダルは京都で病院を開業する実家に普通に持ち帰っていて地元舞鶴は大いに賑わった。ところがベルリン大会組織委員会から送られてきた「3位」のディプロマ(賞状)を見た大江の兄、泰臣氏が順位の間違いに気付き、西田に「交換」を要請したが、西田は頑なに拒否。その後、大江と西田が考え抜いた結果、あの「世界に一つしかないメダル」になったワケである。これは決してお互いの健闘をたたえ合ったのではなく、審判がおかしなルールを作ってしまったせいであり、それを正すために作られた真実のメダルなのだ。

西田は語る「審判が間違えたのだから、正さないといけない。スポーツはルールに忠実でなければならない」

★参考文献

・講談社「読む・知る・話す ほんとうにあったお話 2年生」

笹原良郎(全国図書館協議会顧問) 浅川陽子(お茶の水女子大附属小学校主幹教授)監修

・「西田修平・大江季雄友情のメダル」

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】
 
・Wikipedia「友情のメダル」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E6%83%85%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%80%E3%83%AB
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