第二次ボーア戦争  ~ 世界で初めて「動画化」した戦争 ~

YouTubeの解説動画で詳細に解説することができるのは当時の貴重な資料のみならず、戦争の経過を「動画化」した事に他ならない。アメリカのT・エジソンが「キネトスコープ(映写機)」を発明し、フランスのリュミエール兄弟がキネトスコープの発展型である「シネマトグラフ(カメラ+映写機+プリンターを一つにした『複合機』と呼ばれる)」を開発したことで「動く映像」を確実なものにした。これによって膨大な戦いの記録を綴る作業を激減させ、また、戦いの流れを民衆に見せることで戦意を高揚させた。もし、「動画」というものが現在にも存在しなかったら様々な「戦いの記録」は所謂「勝者の記録」であり、どんなに詳細に解説したとしても所詮は「机上の空論」でしかない(動画化したとしても内容は主に「勝者」中心であって決して「中立的」ではないが…..)のだ。ここからは世界で初めて「動画化」した「第二次ボーア戦争」を含めた「ボーア戦争(第一次・第二次)」について解説する。

●ボーア戦争

「ボーア戦争」とは1880年12月16日~1881年3月23日に起こった「第一次ボーア戦争」と1899年10月11日~1902年5月31日に起こった「第二次ボーア戦争」の総称で、大英帝国(イギリス)とオランダ系アフリカーナ(ボーア人或いはブール人とも)が「鉱山資源の利権」と「南アフリカの植民地化」を巡り2回に渡って争った。そして、第二次ボーア戦争では現在のミリタリー用語でも良く使われる「コマンド部隊」の基となる「特別攻撃隊」を結成。「組織的なゲリラ戦」を実行し、戦争を「泥沼化」させ、大英帝国軍を苦しめた。

第一次ボーア戦争」は、大英帝国がオランダの「ケープ植民地」を占領すると、ボーア人がアフリカ内部に移動し原住民であるズールー族を一掃し「ナタール共和国」を建国したものの、大英帝国の侵攻により滅亡。さらに内部に追われて1852年、南アフリカ東北部の「トランスヴァール共和国」と東北南部の「オレンジ自由国」を建国した。大英帝国はこの2つの建国を容認した。

 (画像提供「Wikipedia」)

ボーア戦争時代の南アフリカ

青:ケープ植民地      赤: ナタール共和国(イギリス軍によって滅亡)

緑:トランスヴァール共和国 

橙: オレンジ自由国

1860年以降、トランスヴァール共和国で「金」がオレンジ共和国で「ダイヤモンド」の鉱山が発見されると白人の鉱山技師が次々と流入、すると大英帝国はこの技師たちの保護を「大義名分」としてオレンジ自由国を「領有化」する。更に海を求めてズールー王国方面へ進出しようとするズール人の動きを止めるため、トランスヴァール共和国の併合を宣言。しかしズール人がこれに異を唱えて、大英帝国に宣戦を布告。ここに第一次ボーア戦争が勃発した。

結果的に大英帝国はまさかの大惨敗を喫し、「プレトリア協定」が締結され、これによってトランスヴァール共和国は再度承認されたのである。

●第二次ボーア戦争

第一次ボーア戦争の事実上の勝利によって、トランスヴァール共和国での「金」鉱山の利権は守られた。しかし、英国をはじめとした何千人もの鉱山技師たちがケープ植民地から流入し始め外国人が殺到、鉱山近くに続々と住み着いたことから所謂「ゴールドラッシュ」が始まり、外国人からの支配を恐れたズール人は彼らに「投票権」を与えず、金の採掘に関しても重税を課した。これによって英国人を始めとした外国人の鉱山主からは「ボーア人政府打倒」の圧力が高まっていった。

英国人の不当な扱いは、ケープ植民地への軍事力の大幅な増強を正当化するための口実として用いられ、英国植民地の重要なリーダーたちもトランスヴァール共和国の併合を支持する者が現れはじめた。中でも時の英国首相ネヴィル・チェンバレンの父である英国植民地相ジョセフ・チェンバレンもその一人である。彼らはズール人を攻め落とすことなど簡単だ、と確信していた。1899年5月にブルームフォンテーンでトランスヴァール共和国大統領ポール・クルーガーとケープ植民地知事(高等弁務官)アルフレッド・ミルナーとの間で交渉会議を行ったがあっさりと決裂。また、1899年9月、ジョセフ・チェンバレン植民地相はトランスヴァール共和国に対し、「大英帝国臣民への完全に同等な権利を付与すること」を要求する最後通告を送った。だがクルーガー大統領もまた、チェンバレンからの最後通告を受信する前に、彼の方からも最後通告を出していた。これは、「48時間以内にトランスバール共和国およびオレンジ自由国の全域から全て英国軍を退去するように求める」ものであった。

   

左: ジョセフ・チェンバレン

中: アルフレッド・ミルナー

右: ポール・クルーガー(クリューガーとも)

緒戦はズール人率いるトランスヴァール・オレンジ軍が優勢に進んでいた。彼らは近代的な戦術で英国軍を次々と壊滅していった。当時の戦術の基本は「歩兵が密集して横隊陣形を組んで攻撃前進する」というのがセオリーであったが、ズール軍は特定の編制をもたず、連装式ライフル銃を装備した「騎乗歩兵」が主力であった。特定の陣形を組まずに分散して展開し、敵に近づくと馬を降りて、ブッシュや地形の起伏を巧みに利用して身を隠し命中精度の高い射撃を行ったのである。これによって英国軍兵士は死体の山を築いていった。「暗黒の一週間」といわれたこの惨劇は大英帝国にとってはこの世の地獄ともいえる日々を送っていた。それでも英国軍は多大な犠牲を払っても果敢に攻め、更に植民地であるインド・豪州・カナダ・ニュージーランド・ビルマ等から「義勇兵」を募り、まさに「大英帝国の威信をかけた」戦争へと変わっていった。そして、それが功を奏したのか、オレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンとトランスヴァール共和国の首都プレトリアを陥落せしめ、「トランスヴァール併合宣言」を高らかに宣言し、勝利は目の前かと思われた。

しかし、ボーア軍は諦めていなかった。彼らは「フォーマルな戦い」に終止符を打ち、「ゲリラ戦」に持ち込んで戦局を打開しようとした。英国軍はこの抵抗は直ぐに収まるだろうと楽観視していた。しかし、そんな彼らの思惑は根底から覆すことになる。何せボーア軍の「ゲリラ戦」は当時としては先進的で英国軍は「組織的なゲリラ戦術」に全くの無知であった。そのため、ボーア軍のゲリラ戦術にいとも簡単にハマり、湯水の如く死傷者が溢れてしまうのであった。

 

ヤン・スマッツと部下のゲリラ部隊(画像提供「歴ログ 世界史専門ブログ」様)

「コマンド部隊」の語源ともなった「ボーア軍の特別攻撃隊」

(画像提供「歴ログ 世界史専門ブログ」様)

これに対し英国軍は「非情な手段」を用いた。これは後に「イギリスの汚点」として深く歴史に名を刻むことになる。その残虐とも言える方法とは…..

まず、女・子ども・老人といったボーア人非戦闘員を強制収容所に収容する作戦を実行した。これは、ボーアの農村がボーア民兵の隠れ蓑になっているため、ボーアの農村を破壊しないと抵抗活動は終わらないというイギリス軍の都合のいい判断によるものである。1901年8月までに約8万人の非戦闘員が収容所に移され、年末には16万人にまでなり、収容所は電流が走る鉄条網に張り巡らされ、衛生状態は最悪で肺炎などの病気が蔓延。食料は常に不足しており飢餓状態で、死亡率は34.4%にも上った。しかし、よくよく考えるとこの残虐とも言えるやり方は今に始まったわけではなく、中世ヨーロッパの時代ではそれが当たり前の様に行なわれていた。しかも収容所に監禁するという生ぬるいものではなく、敵国に対しては女・子供と言えども次々と殺害し、酷いものなんかは敵の民衆が串刺しにされて火あぶりにされていく様を酒を飲みながら見物しているという鬼畜とも言える行為を平気でやってのける民族である。もちろん現在はそんなヨーロッパ人は誰一人としていないが…..。

さらにこの最中、1901年1月22日、ヴィクトリア女王が崩御し増々英国軍の士気は更に落ちた。英国軍は家や農場を焼き払う「焦土戦」に打って出た。これでボーア軍の士気を削げようという狙いだったが、逆に激怒し、増々士気が上がってこれまで以上に英国軍を苦しめさらに泥沼化していった。「焦土戦」に関してはさすがの英国市民も物議を醸し、当時記者だった英国首相ウィンストン・チャーチルも「いやしむべき愚挙」と非難した。

終わりの見えない戦争に終止符が打たれたのは英国側からの講和の呼びかけだった。というのも、イギリス国内では陸軍大臣ネヴィル・チェンバレンが軍需産業と癒着していたことがリークされると、戦争自体に対する非難が高まり、政権が揺らぎ始めており、一刻も早く戦争を集結させる必要があったからだ。対するボーア側も戦いには勝利しているものの、弾薬食料などが底をつき始めていたのだ。そんな両者の思惑が一致して、1902年5月31日、「フェリーニヒング条約」が結ばれ、オレンジ自由国、トランスヴァール共和国は英国の統治下となったが自治は認められ、学校などにおいてもオランダ語の使用は認められた。

この戦争における犠牲者は

英国 戦死6,000名 負傷死・戦病死16,000 負傷23,000

ボーア 戦死6,000 病死20,000

この戦争は後の第二次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争更にベトナム戦争において大きな影響を与えたのは言うまでもなく、また、この戦争で得をしたのはイギリス系の鉱山資本家と軍需資本家(所謂「戦争商売人」)である。

そして、英国軍はシネマトグラフによってこの戦争を動画で記録した。

参考文献・画像提供

Wikipedia「ボーア戦争」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89

歴ログ 世界史専門ブログ

購読する
通知する
guest

CAPTCHA


2 コメントリスト
新しい順
古い順 投票順
インラインフィードバック
コメントをすべて表示