クルスクの戦い/「史上最大の戦車戦」

クルスクの戦いは、1943年に東部戦線でドイツ軍が発動した攻勢作戦「ツィタデレ(城塞)作戦」によって発生した、ドイツ軍とソ連軍との戦闘です。クルスク大戦車戦とも呼ばれ、独ソ両軍あわせて6000両近い戦車が参加した史上最大の戦車戦でした。当時のクルスクにはソ連軍による突出部が形成されており、これを南北から挟撃することでソ連軍の包囲・殲滅を狙ったのがドイツ軍のツィタデレ作戦です。ドイツ軍は新型戦車パンターやティーガーなどの重戦車をはじめとする強力な戦力を投入し、ソ連軍もパックフロントと呼ばれる対戦車陣地を形成してこれを迎え撃ちました。ツィタデレ作戦はクルスクの攻略に失敗したドイツ軍の敗北に終わり、これ以降、ドイツ軍は東部戦線におけるイニシアティブを失うこととなります。

1943年4月の東部戦線

★ツィタデレ作戦発動まで -クルスク突出部の形成-

 1943年1月、スターリングラードの戦いで敗北したドイツ軍は第6軍の多大な戦力を失うとともに、戦いの主導権をソ連軍に渡すことになり、ソ連軍の攻勢の前に大きく退却を強いられることになります。この危機を救ったのが南方軍集団司令官のエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥でした。マンシュタインはドイツ軍を戦略的に後退させ、ソ連軍の補給線が伸びきったところで一気に叩く「バックハンドブロウ(後手からの一撃)」と呼ばれる戦術を用いて第三次ハリコフ戦でドイツ軍に大勝利をもたらします。これにより、ドイツ軍はブラウ作戦開始時の占領地のほとんどを取り戻すことができたのですが、雪解けの季節が訪れて戦線が膠着したため、クルスクだけは奪還することができませんでした。こうしてクルスクの西側にはクルスク突出部と呼ばれる、屈曲したソ連軍支配地域が形成されることになったのです。

第三次ハリコフ戦でハリコフを奪還するドイツ軍 (commons.wikimedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_Bild_101III-Zschaeckel-189-13,_Russland,_Charkow,_Waffen-SS_mit_Panzer_IV.jpg)

★ツィタデレ作戦の立案

 泥濘の季節が終わり、夏季攻勢を見据えたドイツ軍首脳部はクルスク突出部に目をつけ、この地域を占領するための攻勢作戦である「ツィタデレ作戦」を立案しました。ツィタデレ作戦は第三次ハリコフ戦の戦果拡張を図るため、ソ連軍が大勢を立て直す前に早期の攻勢再開を望んでいたマンシュタイン元帥が主導したもので、陸軍参謀総長クルト・ツァイツラー大将や中央軍集団司令官のギュンター・フォン・クルーゲ元帥など将軍たちの多くもこの考えに賛成していたと言われています。ツィタデレ作戦はヒトラーが主張し、周囲の反対を押し切って強行したとする説もありますが、こうした見方は戦後に作戦失敗の原因をヒトラーに被せるために喧伝された面があり、現在では、どちらかというとヒトラーは作戦に反対の立場だったとする説が有力となっています。

クルスクの戦いでティーガーを伴い進撃するドイツ軍 (commons.wikimedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_Bild_101III-Zschaeckel-206-35_Schlacht_um_Kursk_Panzer_VI_(Tiger_I).jpg)

★ツィタデレ作戦の目的

 1、クルスク突出部の消滅
 ツィタデレ作戦の最大の目的は、第三次ハリコフ戦で中途半端に終わったソ連軍への攻勢を再び実施してクルスク突出部を潰し、この場所を守るソ連軍を撃破することでした。ツィタデレ作戦が成功すれば、ドイツ軍はクルスク突出部を起点としたソ連軍の攻勢を防止できるだけでなく、戦線を直線化して250キロも短縮することができ、その分戦力を節約して予備に回す余裕ができるという、軍事的に大きなメリットがありました。
 2、枢軸同盟国への政治的効果
 ツィタデレ作戦には軍事的理由だけでなく、ドイツ軍の劣勢を挽回することで枢軸同盟国の離反を防止するという、政治的な理由もあったといわれます。
 本来ならバルバロッサ作戦により短期決戦で終わるはずだった独ソ戦はすでに3年目に突入しており、さらにドイツ軍はスターリングラード戦以降、徐々に劣勢になっていました。そのため、ルーマニアやハンガリー、フィンランドといった枢軸同盟国の間ではドイツの勝利に対する不安感が生まれており、さらに、中立国のトルコもイギリスに接近しようとしていました。ツィタデレ作戦には、まだまだ独ソ戦はドイツ軍優位であることをアピールし、枢軸同盟国の離脱や離反を防ぐ狙いもあったのです。これは明確に作戦計画の中に述べられているものではありませんが、国防軍総司令部総監だったヴィルヘルム・カイテル元帥はクルスク戦の前に「我々は政治的な理由から攻撃を実行しなければならない」と述べており、これもツィタデレ作戦が実行に移された理由の1つになっていたことがうかがえます。

ツィタデレ作戦のために東部戦線に送られるドイツの新型戦車パンター (commons.wikimedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_Bild_183-H26258,_Panzer_V_”Panther”.jpg)

★ドイツ軍の作戦計画

 ツィタデレ作戦の作戦計画は、北からクルーゲ元帥の中央軍集団が、南からマンシュタイン元帥の南方軍集団がそれぞれ攻撃を行い、クルスク突出部のソ連軍を包囲・殲滅するものでした。中央軍集団はヴァルター・モーデル上級大将率いる第9軍の5個軍団と戦車約1000両を保有し、南方軍集団はヘルマン・ホト上級大将の第4装甲軍とウェルナー・ケンプフ大将のケンプフ支隊2個軍団が戦車1500両を保有していました。ドイツ軍がクルスク戦に投入した戦力は東部戦線全体の63%にもおよび、戦車数の合計2500両は、バルバロッサ作戦に投入された戦車3300両に匹敵する数でした。しかも、バルバロッサ作戦のときは、これらが1700キロもの戦線に配置されていたのに対し、ツィタデレ作戦の戦線は北部が80キロ、南部が60キロと遥かに小さく、ドイツ軍は戦力を狭い地域に密集させており、バルバロッサ作戦以上の密度と攻撃力をもっていたといえます。集められた航空機も1800機に上り、こちらも東部戦線全体の6割に当たりました。ただ、ツィタデレ作戦自体はクルスクの攻略のみを目的とした限定攻勢で、バルバロッサ作戦やブラウ作戦のような戦略的な大攻勢ではありませんでした。バルバロッサ作戦では北方・中央・南方の3つの軍集団で3軸の攻勢を行い、ブラウ作戦ではスターリングラードとコーカサスへの2軸の攻勢を実施したドイツ軍ですが、このときにはクルスクへの1軸の、それも限定的な攻勢しか行うことができなくなっていました。スターリングラードで1個軍がまるまる降伏したことでドイツ軍は大きく戦力を消耗しており、大戦力をかき集めてはいたものの、かつてのような多方面への大規模攻勢を実施する能力は喪失していたといえます。

ドイツ軍の攻撃計画
(commons.wikimedia.org/wiki/File:Kursk-1943-Plan-GE.svg)
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