ブラウ作戦(青作戦)/二兎を追ったドイツ軍

1942年、ドイツのソ連侵攻によって始まった独ソ戦は2年目を迎えていました。当初は短期決戦でソ連を降伏させる予定だったものの、ドイツ軍はモスクワを前に力尽き、1941年のバルバロッサ作戦は失敗に終わってしまいます。退却を始めたドイツ軍にソ連軍は反撃を行いますが、こちらも準備不足で失敗に終わりました。ソ連の冬季反攻を退けたドイツ軍は、戦争に勝利するため再び攻勢作戦を計画します。この作戦はブラウ作戦(青作戦)と名付けられました。ブラウ作戦の目的は、油田地帯を占領し、ソ連の軍需経済に打撃を与えることでした。しかし、戦闘の経過とともにブラウ作戦の目的は変更されていき、最後にはスターリングラードの占領へと変化してドイツ軍に破滅をもたらすことになります。

コーカサスの山岳地帯で戦闘を行うドイツ軍山岳猟兵 (commons.wikimedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_Bild_146-1970-033-04,_Russland,_Kaukasus,_Gebirgsj%C3%A4ger.jpg)

★ソ連の軍需経済崩壊を狙ったブラウ作戦

 1941年12月、ドイツ軍の大攻勢はモスクワ前面で停滞しソ連軍の思わぬ反撃を招きますが、すでに多くのソ連軍部隊を包囲・殲滅して大打撃を与えていました。しかしその一方でドイツ軍が受けたダメージも少なくなく、兵員の定数を満たさない師団も存在していました。来るべき1942年の夏季攻勢では、もはや全戦線での攻勢は望めぬ状況にあり、そこで立案されたのが攻勢重点をソ連南部に絞り、バクーなど油田地帯を含むコーカサス地方を占領するという作戦でした。コーカサスにはユーラシア最大の油田地帯バクーをはじめ、グロズヌイ、マイコプなど多数の油田が存在し、年間の産油量はルーマニアのプロイエシティ油田の約5倍となる2億1300万バレルにも達していました。コーカサスの油田に大きく依存していたソ連にとって、この地域を失うことは致命的な痛手となります。さらに、莫大な石油を確保することでドイツの戦争経済にとっても有利に働きます。ブラウ作戦は、バルバロッサ作戦のように軍事力によって敵の首都を制圧する直接的な方法ではなく、軍需経済にダメージを与える間接的な方法によるソ連の屈服を狙った作戦でした。

ブラウ作戦におけるドイツ軍の進撃 (commons.wikimedia.org/wiki/File:Eastern_Front_1942-05_to_1942-11.png)

★ブラウ作戦のもう1つの目的 敵野戦軍の撃破

 ただ、コーカサスを目指して南に進撃するドイツ軍は、北や東のソ連軍に大きく側面を晒すことになります。そのため、作戦の第一段階としてドン川の上流と下流から二軸の攻勢を行い、スターリングラード付近で包囲網を閉じて、ドン川流域のソ連軍を一網打尽にすることを計画していました。このとき、スターリングラードは必ずしも占領する必要はなく、補給路を断って無力化すれば十分とされていました。ブラウ作戦は油田地帯の占領と敵野戦軍の包囲殲滅の2つの目的をあわせもっており、焦点が定まっていないという意味で、これは問題点といえました。

ブラウ作戦時のドイツ軍 (commons.wikimedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_Bild_101III-Altstadt-055-12,_Russland,_SS-Division_Wiking_beim_Vormarsch.jpg)

★ブラウ作戦の前哨戦

 ドイツがブラウ作戦を計画していた頃、ソ連軍はハリコフとクリミア半島で限定的な攻勢を実施しています。この2つはどちらも失敗に終わり、ソ連軍は大きな損害を出して撃退されますが、ブラウ作戦の開始を妨害する効果がありました。ドイツ軍はブラウ作戦の実施に先立ち、ハリコフ方面でフリデリクス作戦、クリミア半島でトラッペンヤークト(野雁狩り)作戦をそれぞれ発動し、邪魔なソ連軍部隊を排除しています。さらに、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン上級大将の第11軍は、クリミアのセヴァストポリ要塞攻略を行いました。リヒトホーフェン上級大将率いる第8航空軍団の多数の航空機に加え、42㎝臼砲や60㎝臼砲といった大口径火砲、80cm列車砲「グスタフ」などが投入され、セヴァストポリ要塞は7月1日に陥落しています。

破壊されたセヴァストポリ要塞の砲台 (commons.wikimedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_N_1603_Bild-117,_Russland,_Sewastopol,_zerst%C3%B6rte_Festung_Maxim_Gorki.jpg)

★ブラウ作戦の発動

 1942年6月28日、ブラウ作戦は開始されました。枢軸軍の総兵力は125万人で、同盟国のハンガリー、ルーマニア、イタリア軍なども加わっています。ブラウ作戦の発動は、バルバロッサ作戦と同じくソ連軍にとっては奇襲になりました。ドイツ軍では直前に、作戦書類をもった参謀の乗る偵察機が対空砲火で撃墜され、ブラウ作戦に関する機密文書が敵の手に渡るという不祥事が起きていたのですが、スターリンはドイツ軍がモスクワを攻撃すると信じていたため、これは偽情報と考えられ、有効活用されなかったのです。しかし、この時のソ連軍は前年と違い、拠点を死守することにこだわらなくなっており、退却も認められていました。そのため、順調な進撃にも関わらず、ドイツ軍が得た捕虜の数は3週間経っても5万人ほどと、バルバロッサに比較すればわずかなものでした。さらに、ドイツ軍はヴォロネジでソ連軍の頑強な抵抗に遭い、なんとか都市は占領したものの、ヴォロネジより東への進攻は不可能になってしまいます。

ロシア南部を進撃するドイツ軍 (commons.wikimedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_Bild_101I-217-0494-34,_Russland-S%C3%BCd,_Sch%C3%BCtzenpanzer.jpg)
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