1942年、ドイツのソ連侵攻によって始まった独ソ戦は2年目を迎えていました。当初は短期決戦でソ連を降伏させる予定だったものの、ドイツ軍はモスクワを前に力尽き、1941年のバルバロッサ作戦は失敗に終わってしまいます。退却を始めたドイツ軍にソ連軍は反撃を行いますが、こちらも準備不足で失敗に終わりました。ソ連の冬季反攻を退けたドイツ軍は、戦争に勝利するため再び攻勢作戦を計画します。この作戦はブラウ作戦(青作戦)と名付けられました。ブラウ作戦の目的は、油田地帯を占領し、ソ連の軍需経済に打撃を与えることでした。しかし、戦闘の経過とともにブラウ作戦の目的は変更されていき、最後にはスターリングラードの占領へと変化してドイツ軍に破滅をもたらすことになります。
★ソ連の軍需経済崩壊を狙ったブラウ作戦
1941年12月、ドイツ軍の大攻勢はモスクワ前面で停滞しソ連軍の思わぬ反撃を招きますが、すでに多くのソ連軍部隊を包囲・殲滅して大打撃を与えていました。しかしその一方でドイツ軍が受けたダメージも少なくなく、兵員の定数を満たさない師団も存在していました。来るべき1942年の夏季攻勢では、もはや全戦線での攻勢は望めぬ状況にあり、そこで立案されたのが攻勢重点をソ連南部に絞り、バクーなど油田地帯を含むコーカサス地方を占領するという作戦でした。コーカサスにはユーラシア最大の油田地帯バクーをはじめ、グロズヌイ、マイコプなど多数の油田が存在し、年間の産油量はルーマニアのプロイエシティ油田の約5倍となる2億1300万バレルにも達していました。コーカサスの油田に大きく依存していたソ連にとって、この地域を失うことは致命的な痛手となります。さらに、莫大な石油を確保することでドイツの戦争経済にとっても有利に働きます。ブラウ作戦は、バルバロッサ作戦のように軍事力によって敵の首都を制圧する直接的な方法ではなく、軍需経済にダメージを与える間接的な方法によるソ連の屈服を狙った作戦でした。
★ブラウ作戦のもう1つの目的 敵野戦軍の撃破
ただ、コーカサスを目指して南に進撃するドイツ軍は、北や東のソ連軍に大きく側面を晒すことになります。そのため、作戦の第一段階としてドン川の上流と下流から二軸の攻勢を行い、スターリングラード付近で包囲網を閉じて、ドン川流域のソ連軍を一網打尽にすることを計画していました。このとき、スターリングラードは必ずしも占領する必要はなく、補給路を断って無力化すれば十分とされていました。ブラウ作戦は油田地帯の占領と敵野戦軍の包囲殲滅の2つの目的をあわせもっており、焦点が定まっていないという意味で、これは問題点といえました。
★ブラウ作戦の前哨戦
ドイツがブラウ作戦を計画していた頃、ソ連軍はハリコフとクリミア半島で限定的な攻勢を実施しています。この2つはどちらも失敗に終わり、ソ連軍は大きな損害を出して撃退されますが、ブラウ作戦の開始を妨害する効果がありました。ドイツ軍はブラウ作戦の実施に先立ち、ハリコフ方面でフリデリクス作戦、クリミア半島でトラッペンヤークト(野雁狩り)作戦をそれぞれ発動し、邪魔なソ連軍部隊を排除しています。さらに、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン上級大将の第11軍は、クリミアのセヴァストポリ要塞攻略を行いました。リヒトホーフェン上級大将率いる第8航空軍団の多数の航空機に加え、42㎝臼砲や60㎝臼砲といった大口径火砲、80cm列車砲「グスタフ」などが投入され、セヴァストポリ要塞は7月1日に陥落しています。
★ブラウ作戦の発動
1942年6月28日、ブラウ作戦は開始されました。枢軸軍の総兵力は125万人で、同盟国のハンガリー、ルーマニア、イタリア軍なども加わっています。ブラウ作戦の発動は、バルバロッサ作戦と同じくソ連軍にとっては奇襲になりました。ドイツ軍では直前に、作戦書類をもった参謀の乗る偵察機が対空砲火で撃墜され、ブラウ作戦に関する機密文書が敵の手に渡るという不祥事が起きていたのですが、スターリンはドイツ軍がモスクワを攻撃すると信じていたため、これは偽情報と考えられ、有効活用されなかったのです。しかし、この時のソ連軍は前年と違い、拠点を死守することにこだわらなくなっており、退却も認められていました。そのため、順調な進撃にも関わらず、ドイツ軍が得た捕虜の数は3週間経っても5万人ほどと、バルバロッサに比較すればわずかなものでした。さらに、ドイツ軍はヴォロネジでソ連軍の頑強な抵抗に遭い、なんとか都市は占領したものの、ヴォロネジより東への進攻は不可能になってしまいます。
★ヒトラーによる計画変更~コーカサス・スターリングラードへの二正面作戦~
問題は起こっていたものの、ドイツ軍は占領地を拡大していたため、表面上、ブラウ作戦は快進撃のようにも見えました。そのためヒトラーは、目的の1つであったドン川での敵野戦軍撃破は達成されたものと考えます。そして、南方軍集団をA軍集団とB軍集団の2つに分割すると、A軍集団にはコーカサスへの進軍を命じ、B軍集団にはスターリングラードへの攻撃を命じました。さらにA軍集団には黒海東岸の占領、B軍集団にはスターリングラードの占領やアストラハンへ進出してヴァルガ河の水運を遮断といった新たな目標を追加します。コーカサスとスターリングラードという二方向での作戦を行うことに加え、さらに両軍集団は新たな目標を抱え込むことになりました。無力化するだけだったはずのスターリングラードも、占領すべき目標に変化してしまいました。ヒトラーは、ブラウ作戦が成功をおさめているという楽観的な考えに基づき、より戦果を拡大しようとしたのです。しかし、実際にはソ連軍はまだまだ余力を残しており、戦力が分散されたことによってドイツ軍の攻撃力は弱体化することになりました。南方軍集団の指揮官フォン・ボック元帥はこの戦力分割に反対した結果、ヒトラーにより罷免されています。
★A軍集団の戦い~エーデルヴァイス作戦~
コーカサスを目指すA軍集団は、ロストフ占領に成功した後、南へ向けて進軍を開始しました。油田地帯占領作戦には、コーカサスの山々をイメージしたエーデルヴァイス作戦という名称がつけられます。第1装甲軍を擁するA軍集団は、コーカサスの平原地帯で目覚ましい快進撃をみせ、1週間で240キロも前進することに成功しました。コーカサスでの進撃は、ドイツ軍が最後にみせた電撃戦といえるでしょう。しかし、A軍集団が快調に進むほど、前線と補給拠点の距離は離れていき、燃料をはじめとした物資の補給が困難になっていきました。逆にソ連軍は前線との距離が近くなっていく上、鉄道を使って豊富な物資を前線に送り込むことができました。ドイツ軍は、8月10日にマイコプ油田を占領しますが、石油施設はソ連軍の手により徹底的に破壊されたあとでした。そして、マイコプの南にそびえるコーカサス山脈へとぶつかったA軍集団は、戦車の機動力を活かせなくなります。対するソ連軍は戦力を強化して頑強な抵抗をみせたため、A軍集団が山脈を越えてバクーを占領するのは絶望的になり、エーデルヴァイス作戦は完全な行き詰まりをみせました。油田地帯の占領が不可能になったことは、ソ連の軍需経済に打撃を与えることを目標としたブラウ作戦が失敗したことを意味しており、これに納得できないヒトラーはA軍集団の指揮官ヴィルヘルム・リスト元帥を更迭します。
★B軍集団の戦い~スターリングラード攻防戦~
ブラウ作戦が破綻しつつあるなか、ヒトラーがコーカサスに代わる目標として目をつけたのが、ソ連の指導者スターリンの名を冠する街スターリングラードでした。ヒトラーはスターリングラード占領に執着するようになっていきます。ですが、この頃、フリードリヒ・パウルス大将が指揮する第6軍によるスターリングラード攻略も行き詰まりかけていました。スターリンはなんとしてもこの街を守り抜く覚悟でソ連軍の退却を禁じました。当初2週間ほどで終わると考えられていたスターリングラード戦は泥沼化し、ネズミの戦争と呼ばれる、建物1つ1つを奪い合う壮絶な市街戦へと突入していきます。ドイツ軍の一部はヴォルガ川に到達していたものの、市街地ではドイツ軍が得意とする装甲部隊や自動車化歩兵による機動戦もできず、一進一退の攻防が続いていました。
このような状況で、ヒトラーはスターリングラード占領を厳命します。しかし、このときソ連軍は反撃の準備を進めており、11月19日にはウラン(天王星)作戦を発動して、弱体な同盟軍(ルーマニア軍など)が守る戦線を突破し、スターリングラードの第6軍を包囲することに成功しました。救出を試みたドイツ軍による冬の嵐作戦も失敗に終わり、1943年1月31日、第6軍は降伏しました。
★ブラウ作戦失敗の原因~移り変わった作戦目標~
こうして、1942年夏のドイツ軍によるコーカサスへの攻勢、ブラウ作戦は失敗に終わりました。失敗の原因は何だったのでしょうか。まず、ソ連軍が前年と異なり、現在地死守の方針を取らなくなった、という相手側の変化という要素がありました。しかし一方で、ドイツ側の問題も大きかったと言えるでしょう。最初から油田の占領とソ連軍の撃破という2つの目標が設定されており、どれが一番の重要目標かが曖昧だったうえ、途中からヒトラーの横槍によって、戦力の分割や目標の追加など多くの変更が生じました。目標はさらに曖昧なものになり、度重なる変更は分割による戦力の弱体化といったマイナス効果ももたらしました。ブラウ作戦はどんどん原型から変容していくことになり、最後にはスターリングラードでの降伏という当初は予定もしていなかったところで破綻することになります。このブラウ作戦の失敗以後、ドイツ軍は徐々に戦いのイニシアティブを失っていき、ソ連軍による本格的な反撃が始まることとなったのです。