キューバ危機概略 前編

 キューバ危機は人類が滅亡に近づいた最も危機的状況であったと言えよう。キューバ危機を契機として米ソ対立は極限に達し、核戦争に至ってもおかしくない状況であった。ソ連はアメリカの裏庭であるキューバへ「攻撃的」兵器を持ち込み、アメリカはいかなる手段を持ってもこれを除去する算段であった。キューバ危機はケネディの冷静さによって回避されたと述べられる事があるがこれは正確ではない。キューバ危機そのものの始まりが、アメリカの誤算から始まり当事者3カ国の誤算は危機中に何度もあった。核戦争は眼前に迫った極限状況は間一髪回避されたものの危機において核戦争に至る可能性は十二分にあった。もし、ケネディが武断派に耳を傾けキューバの直接的介入に望んだら、ソ連潜水艦から核魚雷が発射されていたら[1]小さな出来事が一つでも違えば人類史は1962年で終焉していた可能性があった。キューバ危機はそれだけ極限の状況下にあったのである。本項目においてはこのキューバ危機を概略として記述していく。

[1] アメリカ海軍は核兵器を搭載しているかどうかも知らずに、爆雷を海中に投下し、攻撃を受けた潜水艦では核魚雷の発射が決定されそうだった。政治将校が反対したことによって核戦争は回避された。

危機の背景

 キューバ危機が人類滅亡の瀬戸際に追い込まれた直接的原因は米ソという根本的政治システムが異なる超大国同士が互いを敵視し、かつ核兵器を持って互いを牽制していたことにある。冷戦期を通じてアメリカは常にソ連に対して経済的に優越していた。また、兵器の質に関しても多少の差異はあるもののアメリカが優位であった。核兵器自体もアメリカが先に開発を終了し、実戦配備を行った。しかし、両者が鉄のカーテンを挟んで対立する欧州域の陸上戦力はソ連が圧倒しており、仮にNATOとWTO(ワルシャワ条約機構)が衝突した場合後者に軍配が上がることが予測されていた。そのためNATOは戦力の劣勢を核兵器によってこのギャップを埋めようとした。1970年代~1980年代以降の戦略的思想は深化し、アクティブディフェンスからエアランドバトルに発展していくことになるが1960年代は未だに理論上においても対東側陣営に対する戦略は構想途上の時代であったと言える。これに対してソ連は核戦力の拡充によって答え、結果的にどちらかが核を放てば確実に核による報復を招くMAD(相互確証破壊)の状態に陥った。端的に言えばキューバ危機が人類の危機となった理由はここにある。ではなぜキューバがその舞台になったのか。

 アメリカは冷戦構造が明確化していく上で、西欧諸国に対する軍事的・経済的援助を行い。自国の位置する西半球におけるプレゼンスを強化した。ラテン・アメリカ諸国の支持や理解を得ようと1951年にはOAS(米州機構)を設立した。一方で米州機構憲章第15条[2]に不干渉原則が明記させられているにも関わらず、グアテマラに対して露骨な内政干渉を行った。[3]アメリカの立場からすると同地域における共産主義政権の存立は核心的利益を阻害するものとみなされていたのである。裏庭に共産主義勢力の伸張を許せば間違いなく、アメリカが対抗する覚悟がないとソ連に誤認される可能性があった。また、同盟国との信頼関係にも関わる問題でもあった。後にニカラグアやチリにおいても左派政権に対する干渉が行われていることからも明らかである。このような文脈の上にキューバは立っていた。他方ソ連にとってはスターリン批判から揺らぐ東側諸国に対する指導力を発揮する必要性があった。自力で革命を達成した「同志」カストロを支援することは重要なポイントであった。加えてソ連の抑止力強化としてキューバにおけるミサイル配備は重要なものであった。加えて当時ソ連が自身で誇張していたほど対アメリカに対するミサイル戦力は十分なものではなかったのである。弾頭数やそれを実際に投射する能力に関しても両者には差が存在した。米ソ両国におけるキューバ認識はこのようなものであった。

 キューバはアメリカにとって自国に組み込む構想が唱えられることもあるほど重要な意味合いを持っていた。大規模な港湾施設を持っているハバナ港がフロリダと向かい合い、産出する特産物から双方にとって利益のある交易が期待できたことなど様々な点からアメリカにとって重要な島であった。1823年にジョン・クィンシー・アダムス国務長官が「我が連合の政治的、商業的利益にとってけた外れに重要な対象」と述べることからも重要性が伺える。ジェームズ・K・ポーク大統領は1848年にはキューバの買収を申し出ている。[4]19世紀後半のスペイン植民地としてのキューバは破綻していた。強制収容所の設置やこれに伴う大規模な餓死や病死の発生を引き起こし、キューバの反体制派活動は活性化した。このような人道的惨事はアメリカ世論の関心を引き起こした。また、内乱がもたらすアメリカ資本に対する損害についてもキューバにおける関心を引きつけることに寄与した。このような背景からアメリカはスペインに対して抑圧行為の停止などを含めた最後通牒を突きつけ、スペイン政府はある程度従ったものの現地反体制派はこれに勢いづき紛争は激化した。メイン号事件[5]も起き米西戦争が勃発した。結果はアメリカの圧勝に終わり、スペインの影響力はカリブ海からほとんど取り除かれることとなった。アメリカのキューバへの介入はキューバの統治権を同島の人民へ返す為であると建前上された。しかし、この米西戦争後アメリカは間接的、直接的にもキューバを支配することになる。グアンタナモ基地、バイア・オンダ燃料基地を貸与させられる事となる。アメリカ占領下で作られた憲法は人権規定、三権分立など先進的な憲法を備える反面、上記の基地租借協定を憲法制定会議で可決させ、アメリカのキューバ支配の構造を制度的にも導入させた。キューバはスペインから独立を果たすものの実質的に支配者がアメリカに変化したことと同然であった、また、フィリピンにおいても当初は現地の反政府勢力に対して独立を見返りに戦争協力を得たものの結局それは反故にされ米比戦争へと繋がっていくことになる。このようなアメリカの帝国主義的な動きは現代もなおキューバ人の反米感情に繋がっている。その怒りはキューバ共和国憲法(1976年)の前文にも現れている。「(中略)1868年にスペインの植民地主義に対し独立戦争を開始した愛国者,及びその勝利はヤンキー帝国主義の干渉と軍事占領により奪われたが1895年の最後の一撃で独立戦争を1898年の勝利に導いた愛国者;」[6]アメリカの影響下にあったキューバ人の心情が垣間見える一文であろう。

 独立後のキューバは脆弱な政権が続き平均2年にも満たない短期政権が続き、ようやく安定的な統治を行うことができるようになるのは第二次フルヘンシオ・バティスタ政権になってからであるからである。キューバは自身の基本的な自己政策の決定すらもアメリカの裁可を仰がねばならなかった。例えば両国の貿易協定においてはキューバのサトウキビ以外の農産物への生産制限がかけられるなど枚挙にいとまがない。アメリカ資本はキューバにおける収益率の高い産業を独占していた。アメリカの影響力はどのような人物の統治であったとしても存在し、キューバ政治の脆弱性がその結果なのか要因なのかは論争がある。アメリカ自身はこのような現状に対して、キューバを併合しようとする帝国主義的な考えには自らを律し、かつ貧困や無政府状態に陥らないように導きキューバに尽くしたと考えていた。このような傲慢な態度がキューバ人民にどのように映ったかは述べるまででもないだろう。

 1956年このような背景の中から革命は始まる。詳細は別項目に譲るが、革命の指導者カストロはわずか数十名から革命を成就させた。この背景には腐敗しきったアメリカの傀儡バティスタ政権と革命の熱意と民衆の支持厚いカストロという構造が存在した。当初カストロの革命は共産主義革命ではなく、バティスタ独裁政権を打倒とアメリカの影響力低下することが目的であった。アメリカ政府も疑いの眼差しを持つだけでアカとは断定していなかったのである。[7]アメリカはバティスタ政権への兵器供与を1958年に停止し、カストロ側との関係構成を開始した。カストロ側もバティスタに対する抵抗運動に共産主義勢力を取り込みつつもこの時点では自らを共産主義革命の旗手と評してはいなかった。しかし、キューバにおけるアメリカの影響力排除の段になると自体は一変することとなる。当然アメリカの政治経済的影響力を廃するということはアメリカの権益低下となり反発は避けることが出来なかった。農地改革法が通過するとアメリカ人の在キューバ資産は限定的ではあるものの没収され、当然のことながらアメリカからの反発を食らった。1959年にソ連のミコヤン第一副首相がキューバを訪問し、アメリカからの経済依存脱出のため1億ドルの信用供与が行われることが決定した。このようにアメリカからの反発からの自衛手段としてソ連への接近は避けられないものであった。しかし、カストロは急進的にソ連と接近することはなく慎重に行った。カストロはアメリカ企業が石油精製を拒否するとそれらの施設を国有化、アメリカはキューバからの砂糖輸入を95%に制限と報復合戦へと発展した。結局、アメリカとキューバは断交するに至る。アメリカはソ連とキューバの接近を間近で目撃し、キューバ革命を赤い革命であるという認識が決定的となってしまった。アメリカはカストロ自体を排除しようと画策を始める。CIAはカストロに対して脱毛剤を使い象徴的なひげを奪い取ることで権威の失墜を狙うという意味不明な作戦からアメリカとキューバ関係を決定的に決裂させるピッグス湾事件まで様々なカストロ追放計画を立案、実行した。特にピッグス湾事件が与えた影響は甚大なものであり、作戦そのものの稚拙さからの失敗とアメリカの関与が隠しきれずケネディ大統領はこの責任が当局にあることを認めざるを得なくなった。政権へのダメージとなっただけでなくラテンアメリカ諸国の反感も買ってしまった。この失敗からアメリカは経済的圧力しか、カストロ排除の選択肢は残っていなかった。OASによる武器禁輸措置、キューバへの完全な禁輸措置を取ったもののカストロ政権を転覆されるどころか禁輸品も品目は東側諸国から供給される事となり、キューバの東側体制への構造的な編入を加速させる事となってしまった。アメリカは反共要塞たる西半球にキューバという穴を自ら広げてしまう結末となったのだ。マングース作戦を始めとした政権転覆隠密作戦もCIAが自ら「カストロ体制は民衆に広く支持されており、予見可能な将来にわたり発生しうる国内での脅威に対処し、それを抑え込む力を十分に備えている。」と評した通り、アメリカの直接的な軍事作戦なしでは成立し得なかった。キューバ危機の間アメリカはピッグス湾事件の如く小規模な軍事介入では到底目的達成をすることは出来ず、キューバで政権打倒を行うには必然的に大規模な介入が要求されたのであった。キューバ危機はこのような背景を持っており、アメリカはキューバを打倒するには軍事介入は必須であった。一方キューバはアメリカとの対決姿勢を深めれば深めるほどソ連の力を必要とする構造にあった。


[2] 第15条 各国が自己を防衛し、自己の生活を営む権利は、他の国に対して. 不正な行為をなすことをその国に許すものではない。

[3]1950~54年のグアテマラ左派政権による反米的諸政策に対してCIAは反革命クーデターを支援。左派政権打倒され、軍事独裁政権へ移行する事となる。

[4] これは当時奴隷州南部と自由州北部が対立を深めている時期であり、このバランスを崩す恐れから実現されなかった。カナダを取り込むことによってバランスを維持しようという主張もあったが、当時の宗主国イギリスはそれを許すはずもなかったのである。

[5] メイン号事件の原因は未だに謎である。ボイラー不調による事故が有力な説である。アメリカ世論はスペイン人によるサボタージュであるとし、世論は一気に開戦が主流を占めた。

[6] キューバ共和国憲法-解説と全訳-」著吉田 稔

https://www.waseda.jp/folaw/icl/assets/uploads/2014/05/A04408055-00-0470102311.pdf より引用 太字は筆者加筆

[7] カストロはキューバ共産主義政党と距離をおいており、対立することすらもあった。

危機の始まり

 アメリカが最も恐れたことは、キューバがソ連との接近の帰結として、ミサイル基地が建設されることであった。アメリカ政府は当初このような自体は起こりにくいと考えていた。フルシチョフもこのようなことを行えばアメリカの強烈な反発を招くし、ケネディがこれに対して寛容でいられるはずがないと理解しているはずだと理解していたからである。そのため、東側諸国が「防衛用」兵器をキューバに持ち込んだとしてもこれが危機の決定的要因にはなり得なかった。また、ソ連も国境外にそれがたとえ共産主義国家であっても戦略核兵器[8]を配置したことはなかった。1962年9月11日ソ連政府はタス通信に以下のような報道を許可した。「ソ連政府は、侵略の撃退や報復攻撃のためにその兵器を第三国、例えばキューバに移動する必要はないとタス通信に許可した。我が国の兵器の爆発力は強力であり、ソ連はこれらの核弾頭を運搬する強力なロケットを所有しているため、ソ連国境外の地に設置場所を求める必要はない。」[9]だが、この恐れは現実化しキューバ危機が発生することになる。

 アメリカがキューバにミサイルを配置されることを恐れた最も直接的原因はソ連の核ミサイルがアメリカの主要都市をその射程に収める事にあった。心理的にも目と鼻の先にソ連の核出張所が存在することは大きな打撃になり得た。ソ連側は再三アメリカにキューバに攻撃用兵器、ミサイルを配置することはないと書簡、報道、外交筋から伝えていた。これに対してアメリカ側はソ連またはキューバ監督下の地対地ミサイル、その他の攻撃的な兵器はアメリカが具体的措置に移る動機になることを同様に様々なルートから伝えていた。一見このような展開からキューバへ明らかに弾道ミサイルが配置されることはないように思われる。そのため、通称「9月の情報予想」と呼ばれるアメリカ情報委員会の予測はキューバにソ連が攻撃用ミサイルを配置する可能性は非常に低いと結論されていた。

 実際アメリカ側がソ連によるミサイル配置を知った際には衝撃を与えた。更に重要なことはなぜ、ソ連がこのようなリスクと裏切りを行ってまでミサイルを配置したのかという動機が問題となった。ソ連がどのような意図を持ってこの決断を行ったのかその動機を知らなければ交渉の余地はあるのか、戦争の準備段階なのか対応する政策の基盤の構成が出来ないからである。ソ連がキューバにミサイルを配置した理由は以下のいくつかの仮説が立てられた。

  • ミサイル・ギャップ論

  <根拠>

 1950年代後半からフルシチョフ政権はしきりにソ連の戦略核戦力の優越性を誇示し、ICBM(大陸間弾道ミサイル)[10]の大量生産を行えていると声高に主張した。これを受けてアメリカでは核戦力が大きくソ連がリードしていることへの恐怖、所謂「ミサイル・ギャップ論」につながることになる。しかし、アメリカの偵察衛星によるソ連国内の調査では実態はごく僅かなICBMしかソ連は持ち合わせていないという結果であった。ミサイル・ギャップはアメリカではなくソ連において働いていたことが明らかになったのである。この事実はアメリカのギルパトリック国防副長官によって公式に発表された。この情勢を覆すには西半球唯一の友好国であるキューバに手持ちのIRBM(中距離弾道ミサイル)、MRBM(準中距離弾頭ミサイル)を配置しこのギャップを埋めに来たのではないかという仮説である。ソ連がキューバに設置したミサイル基地は実際にアメリカの戦略爆撃機基地も射程に収めており、また核戦略では非常に重要な第一撃能力を大幅に増加させること寄与したであろう。

 <疑問>

 しかし、核ミサイル基地を防衛するSAM(地対空ミサイル)は設置が完全ではなくこのタイミングのズレが起こるのは不可解である。[11]更にミサイル基地はカモフラージュが取られておらず当然の如くアメリカに発見される事となる。機能している状態でかつSAMの防御があればこれは抑止力になるが、実際に発見されたタイミングではただのカカシに過ぎなかった。敢えて暴露させたのならばなぜ輸送中は隠匿したのだろうか。

  • キューバの防衛

<根拠>

 アメリカのキューバに対する攻撃的態度は明白であり、これを防ぐためには現在存在するソ連製通常兵器だけでは不十分であった。アメリカのキューバ侵攻前に先手を打ち、核の傘のよってキューバ防衛を達成しようとしたのではないかという説である。事実フルシチョフもミサイル撤去にかかる声明と同日の書簡において以下のように述べている。「ソ連政府は侵略に対する防衛の手段-防衛を目的とする手段だけ-をキューバに援助することを決定した・・・・・。われわれはキューバに対する攻撃を防止するため-早まった行為を防止するため-に援助を与えた。」[12]その他ソ連政府高官も同様の主張を述べている。

<疑問>

 この説にも疑問点は付随する。キューバ防衛用としての核抑止力であれば、高価なそして設置に時間のかかるIRBMを設置したのかが説明が付かない。また、アメリカの侵攻リスクを上昇させるだけであればソ連軍の駐屯のみでそれは達成することができる。その効能はソ連自身西ベルリンに駐屯しているアメリカ軍から理解していたはずである。

  • ベルリン問題

<根拠>

 フルシチョフは西ベルリンから西側諸国を放逐することに失敗した。1961年におけるウィーン会談においても成果は得られなかった。西ベルリンは東側勢力圏にある目の上のたんこぶであり、中欧における戦争の場合も厄介な存在であった。キューバとベルリンのバーター交渉を企図した可能性もある。バーター交渉としてはトルコ、イタリアに配置されていたジュピターミサイルとの引き換えという可能性も存在する。また、キューバに対する攻撃を行えば危機に引きずり込まれるNATO加盟国の分断を図る事もできたかもしれない。加えてソ連におけるハンガリー、英仏のスエズの如く国際社会からの批判を誘引することも可能であった。また、ミサイル基地の隠匿を行わなかった理由の説明もつく。

<疑問>

キューバとベルリンの交換にかかる多大なリスク、そしてそれがもたらす甚大な影響のため決断したとなれば狂気と言っても良いだろう。更に目標がベルリンであれば敢えて危機を長期化させアメリカにキューバ攻撃を決意させる事もできたはずである。実際にはソ連はミサイルを引き上げることとなった。また、アメリカによるベルリン防衛の意思は固くベルリンで行動を起こせば間違いなく第三次世界大戦を誘発したはずだ。

  • 対中国と冷戦政治[13]

<根拠>

 フルシチョフのスターリン批判から東側は大きな混乱とソ連に対する不信感が強まった。特に中国はこのスターリン批判を修正主義として痛烈な批判を行った。それまで蜜月関係であった中ソ関係は悪化の一途をたどっていた資本主義陣営に対する闘争を。ソ連が社会主義陣営の盟主として行い続けるため、キューバ危機を引き起こした可能性がある。アメリカがもし抗議を行うだけで実際の行動を行わなければソ連は大きな政治的利益を得たはずだ。カストロは常に親ソと言うわけではなく自らの権力基盤構成のために国内の親ソグループの粛清を行っていたし、カストロの革命方式は毛沢東主義的な側面も持ち合わせていた。キューバをソ連の庇護下に引きとどめておく意図があった可能性もある。これが成功すればソ連の威光は高まり、ラテンアメリカ諸国の共産主義勢力を勇気づけ世界に第二のカストロ達が誕生する事になった可能性は非常に高い。

<疑問>

 疑問点としては、ソ連がなぜアメリカの政治的決意を1961年のベルリン問題によって理解していたのにも関わらずこのような行動を取ったかである。単なる政治的な試金石であればあれほど大規模の部隊とミサイル基地は必要なかった。この説を支持したケネディ自身が「もしわれわれの勇気を疑っているなら、どうしてベルリンを奪わなかったのか」という言葉にこの仮説の疑問点が凝縮されている。[14]

以上のような様々なソ連の動機の仮説が建てられ、ケネディは最後の説を採った。一方フルシチョフは自身の回想録においてはキューバ防衛のためミサイル配備を行ったと次のように述べている。

 「キューバの運命と、世界のこの地域でのソヴィエトの威信を維持することは、(中略)私の心を捉えていた。(中略)もしわれわれがキューバを失ったならば何が起こるだろうか? 私にはそれが、マルクス日レーニン主義に対する手きびしい打撃になることはわかっていた。そうすれば、全世界を通じてのわが国の威信が、とりわけラテン・アメリカにおいて減退するだろう。キューバが屈服すれば、他のラテン・アメリカ諸国はわれわれを拒み、ソ連邦はその力があるのに、国連にむなしい抗議をするほか、キューバに何もしてやれなかったと主張するだろう。われわれは、ことば以上のものでアメリカと対決する何らかの手段を考えなければならなかった。カリブ海へのアメリカの介入を確実かつ効果的にくいとめる措置を講じなければならなかった。だが、何が効果的なのか? 理にかなった答は、ミサイルだった。合衆国はすでにソ連邦を基地とミサイルで包囲していた。われわれはアメリカのミサイルが西ドイツはいうにおよばず、トルコとイタリアでもわれわれを狙っていることを知っていた。(後略)」[15]

 また、セルゴ・ミコヤンが後に「フルシチョフは、カストロに若きボリシェヴィキの再来を感じた」と述べているように心情的なものもあったと思われる。世界同時革命がほとんど失敗に終わったかと考えられていたとき、ソ連の支援がまったくない中、アメリカの目の前で、東欧のような形でもない極めて自然発生的な社会主義革命[16]が起った。キューバはフルシチョフにとって、重要性のある国と感じても不思議ではないだろう。他社会主義からの支援無しで外国からの干渉に打ち勝ち、革命を成就させたキューバ。その姿に世界から孤立し、帝政と戦い、干渉軍と戦い抜いたあの日を重ねたのかもしれない。 

 何れにせよどの仮説が正しいのかという議論に決着は着いていない。当時のソ連指導部の動機がどれであったとしても矛盾する点が存在するからだ。ソ連指導部のキューバ危機時の資料も少なく、基本的に個人的な回顧録などが中心的な資料となっているのも明快な動機の裏付けが行なえないのも要因である。キューバ危機はこのような不透明な霧の中で始まったのである。

次回:https://rekishi-yaru.com/cuban_missile_crisis-2/


[8] 戦術核兵器に関しては東欧配置のものが存在した可能性がある。

[9] 決定の本質p48より

[10] 核を運搬するミサイルも射程や運用方法によって種類が分かれる。会議でも頻出するかと思うので特性や射程については覚えておくことを薦める。
大陸間弾道ミサイル(ICBM)
中距離弾道ミサイル(IRBM)
準中距離弾道ミサイル(MRBM)
潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)

[11] 実際に政権や情報局の人物はこの事実に困惑したようだ。

[12] 「決定の本質」p57より

[13] 最終的にケネディはこの仮説を受入れ、海上封鎖に踏み切ったのである。また最も有力であるとされている仮説だ。

[14] 「決定の本質」p62より

[15] 「フルシチョフ回想録」p500より

[16] キューバ革命自体はすでに述べている通り、当初から社会主義革命出会ったわけではなく民族主義的革命要素が大きかった。

コラム1 U-2ってなに?

 キューバ危機や冷戦期には度々U-2という言葉が出てくる。軍事に疎い人からすると兵器の名称は記号、種類が多く非常に分かりづらい。そのためここでは簡単にU-2偵察機について解説する。

 U-2 偵察機とはその名の通り、偵察を行うことを想定して設計された航空機である。F104スターファイター戦闘機をベースに設計され、高度21,212m(成層圏)を飛行し敵戦闘機の迎撃が出来ない上空から敵地の偵察を行う。搭載されている偵察用高性能カメラと合わせ詳細な情報をアメリカにもたらした。しかし、ソ連の地対空ミサイルの発達により撃墜することが可能になった。実際に1960年5月1日にU-2 が撃墜されることとなる。この事件は大きな影響があった。一方、能力はたしかな物があり、初飛行から65年した現代でもアメリカでは現役である。

参考資料:最終回にまとめて記載

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