ジュネーブ海軍軍縮会議―もうひとつの「海軍軍縮会議」

 ジュネーブ海軍軍縮条約は、1927年6月20日から8月4日に、スイスのジュネーヴで開催された国際軍縮会議です。主力艦(戦艦と空母)の建造規制と保有総数が決定され、海軍の軍縮への道を開いたワシントン会議と比べるとあまり知られていない会議です。しかし、この会議では、巡洋艦や潜水艦といった補助艦の制限について話し合われました。地味なようですが、重要な会議だったと言えます。


ワシントン海軍軍縮条約のもたらしたもの

 第一次世界大戦後、アメリカやイギリス、そして日本などは海軍の拡張を図っていました。特に問題だったのが、日本とアメリカです。第一次世界大戦の結果、日本は中国と太平洋におけるドイツの権益を獲得します。アメリカは太平洋における日本の進出を阻止しようとしますが、満州問題や排日移民法を巡る問題によって、日米関係は戦争とまではいかないものの、対立関係にありました。
 第一次世界大戦の後、海軍拡張競争が行われましたが、1921―22年に開催されたワシントン会議で締結されたワシントン海軍軍縮条約によって、海軍の軍拡に歯止めがかけられます。しかし、ワシントン海軍軍縮条約の規制外となっている補助艦、特に巡洋艦の規制が問題となってきました。


巡洋艦建艦競争のはじま

 ワシントン海軍軍縮条約では、戦艦と空母については保有艦の合計排水量に制限が加えられることになります。戦艦で言えば、米英は50万トン、日本は30万トンの仏伊は17万5000トンとなっています。保有している戦艦の合計排水量はこの数字を超えてはいけないということです。
 ワシントン海軍軍縮条約の結果、海軍建艦競争に一定の歯止めがかけられましたが、各国の海軍少しでも他国の優位に立とうと、条約の抜け道を探します。それが巡洋艦でした。
 条約では巡洋艦については1隻あたりの基準排水量を1万トン以下、積むことが出来る火砲を5インチ以上8インチ以下とすることが定められました。しかし、戦艦や空母と異なり、合計排水量の制限はありません。
 各国は、巡洋艦を重武装化し、戦艦を補うために建造を拡大させていきます。この時期に建造されたこれらの巡洋艦を条約型巡洋艦と呼びます。画像にある日本の巡洋艦足柄は条約型巡洋艦の典型例です。条約の上限いっぱいの火砲(8インチ砲)を搭載し、より多くの魚雷を積むことで火力を重視しています。その一方で居住性を犠牲にしました。これを見たイギリス人記者が「我々は初めて軍艦を見た。これまで我々が乗っていたのは客船だった。」とその火力重視で居住性を犠牲にした設計を皮肉るほどでした。


ジュネーブ海軍軍縮会議

 こうした現状を打開するために開催されたのがジュネーブ海軍軍縮会議です。1927年にアメリカのクーリッジ大統領が提唱し、アメリカ・イギリス・日本の代表がジュネーブに集まりました。
 会議は6月20日から開始されましたが、アメリカとイギリスが対立します。アメリカは比率主義を唱え、ワシントン海軍軍縮条約の比率、つまりアメリカ・イギリス5、日本3の比率を巡洋艦や駆逐艦、そして潜水艦に適用することを提案します。一方でイギリスは大型巡洋艦については、アメリカの主張する比率主義を適用しても構わないが、小型巡洋艦には適用しないことを主張します。
 アメリカ、イギリスの主張は真っ向から対立してしまいますが、日本はこの間にたって、調整を行うことになります。当時の田中義一内閣は欧米に対しては協調路線で臨む方針を取っていました。しかし、日本の調停もむなしく、両国の主張は平行線を辿ります。
 イギリスが巡洋艦にこだわったのは、英領植民地との関係からです。当時のイギリスは、インドなどの植民地や、カナダやオーストラリアなどの自治領を持っていました。これらの植民地や自治領はイギリスにとって重要でした。特にインドは第一次世界大戦において、200万人以上の兵士や労働者を提供し、戦争においてインドの存在は不可欠とも言えるほどでした。それ以外の植民地や自治領もイギリスの安定のためには不可欠です。
 イギリス海軍は帝国を守るために広大な植民地を防衛する必要がありました。そこでイギリス海軍が目を付けたのが巡洋艦です。イギリス海軍は長期の航海に対応し、数を増やすことで帝国防衛を図ろうとしました。先程紹介したイギリス人記者の感想は、イギリスの巡洋艦と比べた場合は当然でした。イギリスの巡洋艦は日本やアメリカと異なり、攻撃力ではなく、居住性を重視しています。居住性が優れていなければ、イギリス帝国という広範囲を防衛可能な航続性は維持できないのです。
 アメリカの主張する比率主義を小型巡洋艦に適用されてしまうと、イギリスの帝国防衛に支障をきたしてしまいます。そのため、イギリスはアメリカの主張を受け入れられませんでした。
 ジュネーブ海軍軍縮会議に参加したアメリカやイギリスの外交団は軍人を中心にしており、政治的判断が出来ず、妥協を行うことも出来ませんでした。結局、アメリカとイギリスの主張は平行線を辿り続け、妥協をすることなく8月4日に会議は決裂します。補助艦の制限については、1930年のロンドン軍縮会議まで持ち越されることになりました。




主要参考文献
倉松中「海軍軍縮をめぐる一九二〇年代の英米関係-一九二七年ジュネーヴ海軍軍縮会議を中心として」『国際政治』第122号(1999年9月)。

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