★義烈空挺隊の編成と装備
義烈空挺隊は第四中隊に他部隊からの転属者40名をあわせた人員126名の5個小隊からなり、各小隊に1人ずつゲリラ戦の指導を行う陸軍中野学校出身の特別任務将校が配属されています。輸送には第三独立飛行隊の九七式重爆二型12機が使用される予定となっていました。義烈空挺隊を率いるのは、第四中隊長で26歳の若き将校奥山大尉です。巨漢の奥山大尉は、部下想いの性格で、小西郷のあだ名で隊員たちからも慕われていました。奥山大尉の提案で、隊員たちは赤穂浪士から着想を得た全員の署名入り血判状を作り、固く結束を誓い合っています。破壊工作は三人一組で行われることになっており、隊員たちは大型機から小型機まで各種航空機に対する爆破訓練を行っていました。この作戦のため、帯状爆薬と吸着爆薬の2つの特殊装備が開発されています。ロープ状の帯状爆薬は、片方に重りがついており、これをB-29に向けて投げつけ、反対側に落として胴体に引っ掛けた状態で爆発させ、機体を真っ二つにするものです。吸着爆薬は棒の先端に重さ4㎏の爆薬を取り付けたもので、ゴム製の吸盤がついており、これを押し付けてB-29の翼に吸着させ起爆します。他の装備には、九九式短小銃、一〇〇式機関短銃や2つに分解可能できる空挺部隊用の二式小銃、破壊用の爆薬や1人あたり15個の手榴弾などがあり、かなりの重装備となっていました。
義烈空挺隊の指揮官 奥山道郎大尉
★度重なる作戦の中止
隊員たちは、高い士気をもって訓練に励んでいましたが、彼らの思いとは裏腹に義烈空挺隊による作戦は幾度も延期や中止されることになります。最初の目標はサイパン島アスリート飛行場で決行は、1944年12月24日とされていました。クリスマスイブなら米軍も油断しているだろうとの考えです。しかし、飛行隊の練度不足から作戦は延期され、さらに、航空機の中継予定地だった硫黄島が米軍の空襲に晒されるようになったため、1945年2月1日、サイパン島攻撃の中止となってしまいます。その後、硫黄島への攻撃も計画されましたが、硫黄島失陥によりこちらも3月末に中止が決まります。一向に実戦の機会もないまま、特攻隊向けの特別食だけが支給される状況に、隊員の中には自分たちを自虐的に「愚劣食放題(ぐれつくいほうだい)」と呼ぶ者まで出てきました。
航空機の爆破訓練を行う義烈空挺隊員
出撃前の義烈空挺隊員
★義号作戦~沖縄飛行場への突入~
悔しい思いを募らせていた義烈空挺隊にも遂に実戦の機会が訪れました。1945年4月1日、米軍は沖縄本島への上陸を開始したことを受け、第六航空軍の提案により、沖縄の飛行場に対し義烈空挺隊による攻撃を行う「義号作戦」の実施が決定します。目標とされたのは、上陸初日に米軍に占領された北飛行場および中飛行場でした。沖縄であれば、住民の協力を得ることができるため、作戦後のゲリラ戦でも有利になると考えられました。義号作戦は1945年5月24日に実施され、義烈空挺隊の突入に呼応して味方航空部隊による特攻作戦も行われる計画でした。出発の直前にはマスコミの取材も受け、この時の義烈空挺隊の様子は、ニュース映画として現在も残されています。午後6時40分、故障の1機を除く11機の九七式重爆が義烈空挺隊員を乗せ、九州の健軍飛行場から飛び立ちました。途中三回の無線連絡を行う予定になっていましたが、実際に通信があったのは、午後10時11分の突入を知らせる「オクオクオク、ツイタツイタツイタ」の1度きりでした。トラブルで引き返した機や不時着した機もあったため、沖縄にたどり着けたのは8機で、このうち奥山大尉率いる6機が北飛行場へ、副長の渡部利夫大尉率いる2機が中飛行場へ突入しました。ほとんどの機体は対空砲火によって撃墜されましたが、1機もしくは2機の九七式重爆が北飛行場への胴体着陸に成功しています。機体から飛び降りた十数名の日本兵が短機関銃を乱射しながら飛行場内を暴れまわり、手榴弾を投げつけて航空機を破壊しました。この戦闘で米軍は20名の死傷者を出し、航空機33機、ガソリン缶600個が炎上する被害を受けています。この攻撃により、北飛行場の滑走路は散乱した航空機の残骸に塞がれて翌25日まで使用不能となり、完全復旧したのは27日の午前中のことでした。中飛行場も26日の夜まで使用不能になっています。米軍は味方航空機に対して両飛行場への着陸を禁じ、近くの空母へ向かうように指示を出しますが、この命令は混乱の中で暗号化されない平文で行われたため、日本軍にも米空母の居場所がばれてしまうことになりました。しかし、この日は天候が不順だったため、特攻機は視界不良のため大きな戦果を上げられずに終わります。義烈空挺隊は奥山大尉をはじめ、突入した全員が戦死しており、彼らの最後についてはっきりしたことはわかっていません。戦闘後、飛行場で13名、近くの残波岬で1人の日本兵が戦死しているのが確認されており、着陸に成功した義烈空挺隊員は全部で14名だったことになります。これだけの人数でも米軍に相当な被害を与えており、全機が突入に成功していれば、さらに大きな戦果を上げていたと考えられます。しかし、彼らがいくら精鋭であったとしても、敵飛行場への単発の破壊活動だけでは、米軍に与える打撃も限定的でした。味方の航空攻撃が成功していれば結果は違っていたかもしれませんが、残念ながら義烈空挺隊の勇敢さをもってしても、この作戦が戦局に与えた影響はほとんどなかったといえます。
沖縄に強行着陸した後の九七式重爆
義烈空挺隊に破壊された米軍航空機