イタリアのエジプト侵攻は、第二次大戦の北アフリカ戦線において1940年に行われたイタリア軍による攻勢です。イタリアの独裁者ムッソリーニは、イギリス領エジプトを支配下におくとともに、スエズ運河の制圧と地中海の覇権を目論んでいました。しかし、北アフリカのイタリア軍は戦争準備が整っていなかったため、エジプトへは侵攻できたものの、攻勢は停滞してしまい、大きな勝利を得ることはできませんでした。イタリアによるエジプト侵攻は、やがてドイツ軍のアフリカへの派兵を招き、1943年まで続く北アフリカ戦線がはじまるきっかけになりました。
★イタリアの参戦
イタリアが第二次大戦に参戦したのは1942年6月10日のことです。当時、ドイツ軍の目覚ましい電撃戦によりヨーロッパ随一の軍事大国フランスは敗戦濃厚となっていました。これを見たムッソリーニは、ドイツの勝利に乗じて利益を手にするべくフランス南部への侵攻を開始しました。しかし、戦争準備の整っていなかったイタリア軍は、降伏間近だったフランス軍の反撃に遭い、撃退されることとなりました。ムッソリーニの威信は大きく傷つくこととなり、フランス敗北後も期待通りの領土を得ることは出来ませんでした。そこで、ムッソリーニはさらなる侵攻作戦を計画し、次の目標を北アフリカのイギリス領エジプトへと定めます。すでにイタリア軍は東アフリカでイギリス軍と交戦しており、ムッソリーニはエジプトを支配することでスエズ運河を制圧し、地中海の制海権を掌握できると考えていました。7月、ムッソリーニはヒトラーに対して、8月にエジプトへ侵攻する意図があることを記した書簡を送りました。
★北アフリカにおけるイタリア軍の状況
1940年当時、北アフリカのイタリア植民地リビアにいたイタリア軍は総兵力2個軍約25万人、砲1800門、戦車340両、航空機150機となっていました。これは、エジプトに駐留するイギリス軍の戦力36000人の約7倍にあたります。イギリス軍はパレスチナの部隊をあわせても兵力65000人ほどしかおらず、さらに、リビアとエジプトの国境には少数の部隊が配置されているだけでした。一見すると有利に見えるイタリア軍ですが、フランス戦同様、戦争準備はできておらず、装備は旧式で将兵の士気も低下していました。さらに、陸軍正規部隊とファシスト党の軍隊である黒シャツ隊の対立といった組織的な問題も抱えていました。そのため、リビア派遣軍総司令官ロドルフォ・グラツィアーニ元帥はこの計画に反対しており、ムッソリーニに攻勢は不可能だと訴えます。しかし、ムッソリーニはこれを認めず、ドイツによるイギリス侵攻(アシカ作戦)に呼応して北アフリカでの攻勢を実施することにこだわり、「これで勝てなければ貴様は無能だ」と9月9日、グラツィアーニに対してエジプトへの侵攻命令を厳命しました。
★グラツィアーニ攻勢
イタリアによるエジプト侵攻は、1940年9月13日、キレナイカ方面に置かれていたマリオ・ベルティ将軍率いるイタリア第10軍により開始されました。この攻勢は指揮官の名前をとって「グラツィアーニ攻勢」と呼ばれることもあります。第10軍は、歩兵師団9個・黒シャツ師団2個・リビア(植民地)師団2個で構成されており、そのうち7個師団がエジプトへの攻勢に投入されました。攻勢に先立ち、9日からはイタリア空軍による航空戦も開始されています。キレナイカのカプッツィオ砦を出撃した第10軍は200両の戦車部隊と黒シャツ部隊を先頭にエジプト国境を越えると、イギリス軍の前線陣地を突破して、数日後にはサルームを占領することに成功します。戦力に劣るイギリス軍は無理な抵抗はせず、時間稼ぎのために小規模な反撃を行っただけで退却しました。制空権を手にしていたイタリア軍はマルサ・マトルーへ退却していくイギリス軍に空爆を行い、第1黒シャツ師団「3月23日」はシディ・バラーニ近くの街へと進出しています。しかし、イタリア軍は敵の攻撃ではなく、灼熱の砂漠と補給不足に苦しめられることになりました。道路や水道施設を建設するため作戦を一時中断する必要があると考えたグラツィアーニは、16日、エジプト領内へ100キロほど侵攻したところでイタリア軍に停止命令を出します。ムッソリーニは進撃を続けて速やかにアレクサンドリアを占領するよう命じますが、第10軍はすでに停止して陣地構築と物資集積をはじめており、参謀総長ピエトロ・バドリオ元帥もグラツィアーニの考えに同意しました。グラツィアーニはしっかりとした防衛線と補給線を築き、さらに本国に1000両の戦車を要請し、体勢を整えてから再び攻勢を実施するつもりでした。それまでイギリス軍の反撃を防ぐべく、シディ・バラーニとその周辺のマクティラ、プント、タマール東、タマール西、ニベイワ、ラビア、ソファフィに塹壕陣地と防御施設の構築が行われます。これらの防御陣地は砂堤や石・土嚢を積み上げた壁、地雷原、対戦車壕、対戦車障害などかなりの規模でしたが、それぞれの陣地には間隙があり、お互いを火力で支援できるようにも作られていませんでした。部隊の停止後、イタリア侵攻軍は3か月以上にわたって時間を浪費することになります。グラツィアーニが臨んだ増援もイタリア軍のギリシア侵攻がはじまったために受け取れず、結局、イタリアによるエジプト侵攻はイギリス軍の主防衛陣地であるマルサ・マトルーへ到達するまえに終わりを迎えたのです。
★エジプト侵攻のその後 イギリス軍の反撃とドイツ軍のアフリカ派兵
イタリア軍のエジプト侵攻が中途半端な状態で停止している間、エジプトのイギリス軍は地中海や中東から補給と増援を受けて戦力を強化し、イタリア軍への反撃を開始しました。12月9日、イギリス艦隊の艦砲射撃とともにコンパス作戦が発動されると、イタリア軍は大打撃を受けてシディ・バラーニを失陥し、今度は逆にリビアへと攻め込まれることになります。1月22日にはトブルク、2月6日にはベンガジといった主要都市が陥落し、後退していたイタリア軍もベダ・フォムの戦いで英軍に大敗しました。2月7日には第10軍が降伏し、グラツィアーニは残りの部隊を連れてトリポリへと退却していきます。この時点でイタリア軍の残余は8000人ほどにまで減少していました。フランス、ギリシアに続き北アフリカでも敗北したイタリアにヒトラーは激怒します。しかし、地中海の制海権を考えると、このままイタリアを見捨てるのは得策ではありません。そこでドイツは、後に「砂漠の狐」と呼ばれるエルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・アフリカ軍団の派遣を決定しました。ドイツ軍の登場によって北アフリカの戦いは長期戦の様相をみせ、1943年に枢軸軍がチュニジアで降伏するまで、3年あまりにわたる戦いが繰り広げられました。北アフリカのイタリア軍は戦力的には敵を大きく上回っていたものの、戦争準備は全くでておらず、部隊を支えるだけの兵站ももっていませんでした。そのため、ほとんど戦果を上げないまま敵の反撃によって敗北を迎えることになります。1940年のエジプト侵攻は独裁者ムッソリーニが巻き起こした無謀な挑戦であり、イタリアの実力からすると分不相応な攻勢作戦だったといえるでしょう。