カ号観測機-弾着観測機、対潜哨戒機と数奇な運命をたどったオートジャイロ

 カ号観測機は、第二次世界大戦時に日本陸軍が開発したオートジャイロです。この機体は、砲兵の弾着観測に使用されることが想定されましたが、船団護衛のためにも使われることになります。今回はカ号観測機とはどのような機体だったのかを紹介します。

オートジャイロブーム

Cierva-Duxford.JPG、Asterion、CC 表示 2.5

 オートジャイロが開発されたのは、1923年1月のことです。1911年にルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが、翼端噴流式機構を考案し、特許を取得していましたが、実際に初飛行に成功したのはスペイン人のフアン・デ・ラ・シエルバでした。
 1930年代に入ると、各国で開発が行われることになります。各国で機体の開発が行われるのと並行して、アメリカ海軍やスペイン海軍、イギリス海軍、イタリア海軍などでは空母や水上機母艦、そして重巡洋艦を用いて、発着艦実験が行われ、これに成功していました。
 ソ連でも、1920年代末から研究開発が始まっており、1929年にはソ連初のオートジャイロKASKR-1が初飛行に成功しました。ソ連は更にオートジャイロの開発を継続しており、世界初の武装オートジャイロ、カモフA-7シリーズを開発していました。こうした世界でのオートジャイロブームに対応して、日本でも開発が行われることになりました。

弾着観測機として開発

 日本は1932年にイギリスからシェルヴァC.19が輸入されます。翌年にはアメリカからケレットK-3が輸入されましたが、国産軍用オートジャイロの開発は今回紹介するカ号観測機の開発完了を待たねばなりませんでした。
 軍用オートジャイロの開発が本格化したのは、ノモンハン事件がきっかけでした。この時、日本陸軍は弾着観測用の係留気球を多数揚げていましたが、これらはソ連軍の戦闘機に撃墜されてしまいます。陸軍は気球の代わりとなる弾着観測機を必要としていました。そこで目をつけたのがオートジャイロでした。
 1939年陸軍航空本部はアメリカからケレット KD-1Aを輸入していましたが、1940年に事故で破損してしまいます。これを陸軍技術本部が譲り受け、大坂高等工業学校に持ち込み、ここの指導の下で萱場製作所に修理を依頼しました。
 1941年に修理が完了した試作機が飛行試験に成功し、これを原型とした国産型2機の制作が指示されました。1942年に国産型がカ号1型観測機として採用されました。

弾着観測機から対潜哨戒機へ

 カ号観測機は採用されましたが、エンジンやプロペラなどの部品供給の遅れから、実戦配備は進みませんでした。実戦配備されたのは30機程度と見られています。当初は中国戦線での弾着観測任務に使用されるはずでしたが、戦局の変化に伴って、中国戦線で使用されることはありませんでした。弾着観測用としては、少数がフィリピンに送られたとされていますが、これらの機体もフィリピン到着前に積載されていた船が撃沈されてしまいます。
 1943年、陸軍はカ号観測機を弾着観測用ではなく、対潜哨戒機として使用することを考えます。当時、戦局が悪化しており、日本の輸送船団がアメリカの潜水艦によって撃沈されていました。太平洋戦線においては、増援を送ろうにも輸送船が撃沈されてしまい、東南アジアの資源地帯と日本の輸送もままならない状況でした。
 しかし、日本海軍は船団護衛への理解が低く、戦闘艦の増備に集中していました。そのため、補助艦艇の装備には消極的で、揚陸艦、上陸用舟艇などは陸軍が行わなければならない状況でした。船団護衛を海軍に期待できない以上、陸軍は自らの手で何とかしないといけないと考えるようになりました。
 そこで考え出したのが、戦時標準船を護衛空母に改造した上でカ号観測機を載せるというものでした。1943年6月に特殊舟艇母船あきつ丸でカ号観測機の発着艦実験が行われ、成功しました。
 しかし、この構想は構想のままで終わることになります。搭載を予定していた2D型貨物船は小さすぎ、あきつ丸への搭載が検討されました。しかし、あきつ丸が本格的な空母へと改装され、固定翼機を搭載した方が合理的とされます。発着スペースの少ない船ならば、オートジャイロしか運用できませんが、空母となり、十分な発着スペースが取れるようになれば、オートジャイロである必要はありません。固定翼機の方が、オートジャイロよりも爆雷の搭載量などで優れており、固定翼機を使用した方が合理的です。
 1944年11月にカ号観測機があきつ丸に積載されますが、これは純粋な荷物としてであって、艦載機としてではありませんでした。そして、これら積載された機体も、フィリピン輸送の途中であきつ丸が潜水艦に撃沈され、海の藻屑となってしまいました。
 この頃になると、日本と東南アジアを結ぶ南方航路の維持が絶望的となり、南方航路自体が閉鎖されてしまいます。以後は、陸上基地からの対潜哨戒が主な任務となりました。カ号観測機は福岡の雁ノ巣飛行場に配備され、長崎県壱岐の筒城浜基地に移動し、壱岐水道の哨戒任務につくことになりました。その後、対馬にも配備され、日本と大陸の海上交通路の対潜哨戒にあたります。その後、アメリカの艦載機の出現によって、能登半島へと移動します。オートジャイロということで、戦闘機の攻撃には弱く、制空権が維持できない中での活躍は難しかったのです。


主要参考資料
玉手栄治 『陸軍カ号観測機 幻のオートジャイロ開発物語』光人社、2002年
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書46 海上護衛戦』朝雲新聞社、1971年5月。

購読する
通知する
guest

CAPTCHA


0 コメントリスト
インラインフィードバック
コメントをすべて表示