キスカ島撤退作戦・奇跡を生んだ数々の偶然

 キスカ島撤退作戦とは、1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた、帝国陸軍キスカ島守備隊約6,000名の撤退作戦です。作戦の正式名称は「ケ号作戦」で、潜水艦による撤収を図った期間と、水上艦艇でキスカ湾に突入し兵士を収容しようとした期間に分けられます。 最終的に守備隊全員が無傷で撤退できたため「奇跡の作戦」ともいわれますが、その奇跡が起こったことはいくつもの偶然が重なった結果でした。 この記事では、キスカ島撤退作戦に影響を与えた偶然の数々について解説します。


キスカ島から撤退するまでの経緯

 キスカ島は、アリューシャン列島の西側にある島で、アメリカ合衆国アラスカ州に属しています。地図を見れば分かりますが、アッツ島とともにかなり辺境の場所といえる島です。
 キスカ島とアッツ島に日本軍が進出占領したのは、1942年6月のことです。なぜ日本軍がキスカ島を占領し、そして撤退することになったのか、その経過について見ていくことにしましょう。

帝国海軍の第二段作戦

 1941年12月8日にハワイ真珠湾を奇襲攻撃して始まった太平洋戦争は、翌1942年3月初めには海軍が第一段作戦と呼称していた目的をほぼ達成していました。
 その結果、西はビルマ(現在のミャンマー)から東はソロモン諸島に至るまで、東西7,000キロ、南北5,000キロという広大な戦域に軍を展開させることになります。後年考えると、すでに日本の国力ではカバーしきれない戦域でしたが、少なくともこの時期までは、ほぼ連戦連勝できていたので、まだ問題が噴出することはありませんでした。
 この段階において次の作戦がたてられました。第二段作戦というものですが、じつは軍令部や連合艦隊司令部、そして陸軍の思惑にはズレが生じていたにもかかわらず、個別の作戦が進んでしまうことになったのです。

MI作戦とミッドウェーでの大敗北

 連合艦隊司令長官の山本五十六は、開戦前からアメリカとの長期戦は不可能であり、短期で講和までもっていくためハワイ諸島の攻略は不可避だと考えていました。
 ハワイ攻略を望む連合艦隊司令部と、それに反対の軍令部の妥協の産物として第二段作戦に加えられたのがMI作戦とAL作戦です。
 MI作戦はミッドウェー島の攻略ならびに米空母部隊撃滅を目的とした作戦で、AL作戦はMI作戦の補完的な意味でアリューシャン列島西部の攻略占領を図るものでした。そしてMI作戦の目標となったのがアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島だったのです。
 1942年6月6日にはアッツ島を、6月7日にはキスカ島を反撃されることなく占領することに成功します。
 しかし2島を攻略している最中の6月5日にMI作戦で発生した海戦(ミッドウェー海戦)で、日本海軍は空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に喪失するという大敗北を喫してしまいました。
 太平洋戦争の一つの転換点を迎えてしまったのです。

戦略なきキスカ島の維持

 キスカ島とアッツ島の占領に成功したものの、その維持の必要性には疑問も残ります。そもそもアリューシャン列島攻略の必要性について、帝国陸軍北部軍(樺太・北海道・東北の守備を担当する部隊)が、米空母の本土への奇襲を防止する牽制の意味で具申したといわれています。
 一方、帝国海軍はMI作戦で米空母を引きずりだす刺激策の一つとしか考えておらず、そのためなら守備隊は捨て石になっても構わなかったという記録も残っています。
 結局2島の守備隊は独力で死守する以外に道はなくなり、1943年5月のアメリカ軍によるアッツ島攻略のための「ランドクラブ作戦」を迎えることになりました。

アッツ島の玉砕

 日本軍の予想では、よりアメリカ本土に近いキスカ島にアメリカ軍が上陸してくると考えられていました。しかし最初の攻撃先はアッツ島になり、上陸してきたアメリカ軍11,000名に対して、山崎保代大佐率いる日本軍守備隊は2,650名という兵力差となってしまったのです。
 1943年5月12日、アメリカ軍がアッツ島に上陸を開始しました。5月20日に大本営はアッツ島への増援中止を決定し、戦史叢書に記載されている樋口季一郎(陸軍中将・北部軍司令官)の証言によれば、アッツ島見殺しの代わりにキスカ島からの撤退作戦が了承されたとされています。
 アッツ島守備隊の必死の抵抗も空しく、5月29日から30日にかけての最終突撃で守備隊は壊滅し、日本国内の放送で「玉砕」という表現が初めて使われました。

キスカ島からの撤退作戦

 ある意味アッツ島が身代わりとなって決定されたキスカ島からの撤退ですが、すでに制空権・制海権をアメリカに握られていることから、水上艦艇による守備隊の収容に海軍は消極的で、潜水艦による撤退作戦が行われることになりました。
 アッツ島玉砕直前の5月27日、伊号第七潜水艦がキスカ港に入港し60名を収容したところから作戦が開始されました。潜水艦による作戦は6月23日まで継続され、約800名の収容に成功する一方、3隻の潜水艦が撃沈され、その他の潜水艦の損傷も増え続けたことから、潜水艦による作戦継続は断念され、水上艦艇による作戦に切り替えられたのです。

キスカ島撤退作戦に影響を与えた偶然

 水雷戦隊による作戦に切り替えられ、改めて1943年6月28日に「ケ号作戦」が発動されました。実働部隊は第一水雷戦隊で、司令官は着任したばかりの木村昌福少将が勤めました。
 最終的に7月29日に第一水雷戦隊がキスカ湾に突入し、守備隊5,183名全員を収容して無事に帰還するという奇跡を成し遂げたのですが、この成功にはいくつもの偶然が重なっていたのです。
 ここからは作戦が成功できたいくつもの要素を見ていきましょう。

強運の持ち主木村昌福少将

 強運というのは結果論という側面はありますが、名将の的確な判断で良い状況を引き寄せる実例は枚挙にいとまはありません。
 そのような意味では、少なくとも日本軍側では木村昌福が第一水雷戦隊を指揮したことが、幸運をたぐり寄せる最大の偶然だったといえます。
 実はケ号作戦において最初のキスカ湾突入は、作戦成功の鍵を握っていた「濃霧」に恵まれなかったことから、木村昌福の判断で中止しています。突入を主張する部下をよく諭し、帰投後に軍令部や連合艦隊司令部から浴びせられた猛批判も、意に介さなかったと言われています。
 もし冷静な判断なく、部下の意見に押し切られていたら、キスカ島を包囲していたアメリカ艦隊や航空部隊に攻撃され、ケ号作戦は継続できなかったと考えられます。
 7月22日、幌筵島(千島列島北東部の島で当時は日本領)の気象台が「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」との予報を出したので、戦隊はすぐに幌筵島を出港しキスカ島に向かいました。
 キスカ湾への突入を7月29日と決めていたものの、前日までは前回と同じような天候でした。しかし作戦に使用できる燃料はこれで尽きてしまうため突入を決断し、島を南側から西側を回り込むルートで進むことにし準備するうちに霧に恵まれたのです。
 キスカ湾に入り投錨すると霧が一時的に晴れ、守備隊の収容が終り退避するときに再び霧に包まれるという強運ぶりでした。
 奇跡的な無傷撤退を成功させた木村昌福少将は、昭和天皇に拝謁するという栄誉をうけています。

樋口季一郎による小銃投棄命令

 ケ号作戦においてキスカ湾に突入し、守備隊約5,200名を収容する時間の短縮は、作戦成功を左右する重要な要素でした。そのため作戦を実行する海軍は「守備隊が所持する小銃の海中投棄」を陸軍北部軍に依頼しました。
 陸軍の小銃は菊花紋章が刻印された三八式歩兵銃で、それを捨てることは不敬罪にも近い行為とするむきがあったのです。しかし要請を受けた北部軍司令官の樋口季一郎中将は、陸軍中央に諮ることなく了承し、撤退時に小銃を投棄することを現地守備隊に命令しました。
 この判断は人命重視によるものといわれ、樋口季一郎の過去からの言動を見れば確かなことだと理解できます。
 またアッツ島玉砕の見返りに、キスカ島撤退作戦を海軍に迫ったのも樋口季一郎といわれており、彼の存在も奇跡の実現にかかわった偶然の一つといえるでしょう。

アメリカ軍の誤認とミス

 日本側の判断と気象条件など、作戦成功につながる偶然が重なりましたが、結果的に最大の幸運は作戦決行当日にアメリカ艦隊がキスカ島周辺にいなかったことです。
 アメリカ軍のレーダー技術は日本を大きく凌駕していたものの、当時はまだ誤反応など信頼性は高くなく、7月26日にキスカ島周辺に展開していた戦艦ミシシッピーのレーダーに日本艦隊とみられるエコーが検知されました。
 これはレーダーの虚像による誤反応を日本艦隊と見間違えたという説が有力ですが、アメリカ艦隊は濃霧のなかの虚像にたいしてレーダー射撃を行いました。
 射撃後にはレーダー反応は消え去り、敵艦隊を殲滅できたと判断したキンケイド中将は、弾薬補給の必要もあることから艦隊を一時キスカ島周辺から後退させました。彼のミスは、哨戒用の艦艇まで後退させてしまったことで、これが奇跡に直結します。
 日本軍側は知らなかったことですが、決死の覚悟でキスカ湾に突入した7月29日にアメリカ艦隊はキスカ島周辺にはおらず、補給を終えてアメリカ艦隊が再度キスカ島を包囲したのは日本軍が撤退した翌日の7月30日でした。
 恐ろしいほどの偶然が重なり、少なくともこの奇跡の間は両軍に1名の犠牲者も出ませんでした。

まとめ

 太平洋戦争のなかでも特筆すべき成功となったキスカ島撤退作戦は、当時は両軍が知らなかったとはいえ信じられないような偶然が重なった奇跡的な出来事でした。
 とはいえ日本軍の行動に目を移せば、奇跡を呼び込むような見事な判断がされていたことが分かります。そして海軍の木村昌福少将と陸軍の樋口季一郎中将という、ともに人道主義を重んじ人命を軽視しなかったといわれる二人が、キスカ島撤退作戦に関わり共に重要な判断を下していたことは、とても奇跡という言葉では片づけられないような気がします。




主要参考資料
「人道の将、樋口季一郎と木村昌福 アッツ島とキスカ島の戦い」 ・・・ 将口泰浩
「戦史叢書」 ・・・ 防衛研修所戦史室

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