ポートモレスビー作戦-地獄の戦場はいかに生まれたのか

 ニューギニア作戦は、日本軍将兵の9割が命を落とす地獄の戦場だったと言われています。その口火を切ったのが、ポートモレスビー作戦でした。ポートモレスビーは、第二次世界大戦後独立したパプアニューギニアの首都となり、第二次世界大戦中もニューギニア戦線における重要拠点でした。日本軍はここを海、そして陸から攻略しようとしました。しかし、結局は失敗します。今回はポートモレスビー作戦とはどういうものだったのかを紹介します。


海からのポートモレスビー攻略

 第二次世界大戦の開戦後、日本軍はグアムを攻略し、ニューブリテン島のラバウルを占領します。その後も、日本軍は進撃を続けていき、1942年5月にはポートモレスビー攻略のためのMO作戦の実施が決定されました。
 MO作戦は、海からポートモレスビーとツラギ島を攻略しようという作戦でした。1949年1月29日に発令されました。その一方で、アメリカ軍の機動部隊がラエとサラモアに来襲し、特設艦船3隻、輸送船1隻が撃沈されるなど、MO作戦に投入される攻略部隊は大損害を受けてしまいました。
 そのため、作戦は1か月延期せざるを得なくなりました。その上、航空戦力増強の必要性が認められ、第5戦隊、第5航空戦隊、第7、第27駆逐隊の南洋部隊への編入を実施しました。
 こうした中で発生したのが珊瑚海海戦です。珊瑚海海戦は、5月4日から8日にかけて日本海軍とアメリカ海軍の機動部隊の間で行われた海戦です。この海戦で日本軍は空母、駆逐艦をそれぞれ1隻ずつ、掃海艇3隻を失いました。一方、アメリカ軍は空母、駆逐艦、給油艦をそれぞれ1隻ずつ失いました。 この海戦では、戦術的には日本軍が勝利を収めましたが、戦略的には敗北だったとされています。その理由はポートモレスビー攻略を延期せざるを得なくなったためです。第二次MO作戦の実施が決定されましたが、6月のミッドウェー海戦の結果、日本海軍は空母4隻を失い、作戦自体も失敗に終わったため、ポートモレスビー攻略は海からではなく、陸路からの攻略に切り替えられることになります。


陸からのポートモレスビー攻略

 ミッドウェー作戦の失敗により、海からの攻略を断念しましたが、ポートモレスビー攻略の重要性は高まっていました。サモア諸島及びフィジー諸島攻略のFS作戦も中止され、ソロモン諸島、ニューギニア方面においてはラバウルの重要性が増すことになります。ポートモレスビーを攻略して、ラバウルの安全を確保すべきという意見が高まります。
 ミッドウェー海戦で勝利を収めたアメリカ軍はソロモン諸島に進出をしてきます。アメリカ軍は日本軍の拠点となっていたラバウルの攻略を企図していました。加えて、オーストラリアからの反攻作戦のためにはポートモレスビーの安全確保が重要であり、このためソロモン諸島にアメリカ軍が進出してきます。
 こうした中で陸からのポートモレスビー攻略の準備が進められることになりました。ポートモレスビー攻略のレ号作戦実施のために新設された第17軍に南海支隊を編入、作戦実施のための偵察を命じることになります。陸路での侵攻では最高峰4000メートルのオーエンスタンレー山脈を越えなくてはならず、ジャングルの中を220キロもの長距離の踏破が必要になります。このリ号研究の結果をもって、作戦の可否を決定されることになっていました。 7月15日に大本営参謀の辻政信中佐が陸路攻略を決定したことを通知します。リ号研究の結果をもって、可否を判定するはずでしたが、辻は直ちに作戦を実施するように指導をしました。これは後に辻の独断専行として批判されることになります。


ポートモレスビー作戦とその失敗

 日本軍は陸路からポートモレスビーを目指すことになりました。7月21日に南海支隊の先遣隊がブナの近くのゴナに上陸し、内陸へと進んでいきます。作戦は当初順調に展開し、7月29日に内陸にあるオーストラリア軍の陣地ココダを占領しました。
 作戦は当初順調に進みました。ココダからさらに進撃を続けることになります。日本軍の補給線は伸び切っていました。道路の整備も十分ではなく、日本軍は補給には馬を使用していましたが、進撃が続くにつれ、馬でも輸送が困難になります。9月7日頃になると、アメリカ・オーストラリア連合軍の空襲に晒され、補給はさらに困難になりました。
 こうした中で事態はさらに厳しくなっていきます。南海支隊の主力がラバウルを出発する以前、ガダルカナル島にアメリカ軍が上陸し、ガダルカナルの戦いが始まっていました。第17軍はガダルカナルと東部ニューギニアの2正面作戦を決定しますが、補給物資や航空支援はガダルカナルへと振り向けられることになりました。
 物資の乏しい南海支隊は、一刻も早くポートモレスビーを攻略する必要がありました。しかし、ガダルカナルの戦局が悪化してきました。日本軍はオーエンスタンレー山脈を越え、ポートモレスビー近くへと進んでいましたが、それ以上の進撃は断念せざるを得なくなりました。
 日本軍は撤退を開始しますが、これは戦闘の終わりではありませんでした。連合軍は日本軍を追撃します。しかし、日本軍と同じ補給の問題が生じます。結局、連合軍は空中投下を頻繁に行い、ココダの飛行場を占領した後は、ここを補給の拠点としました。
 ソロモン諸島やニューギニア方面の戦局悪化を受け、大本営は第8方面軍を新設し、ニューギニア方面を管轄する第18軍を新設することになります。日本軍の増援が送られてきますが、輸送作戦は駆逐艦による輸送となってしまい、またアメリカ軍の空襲によって、増援は難航しました。日本軍は粘り強い抵抗を見せましたが、1943年1月にバサブア、ブナの守備隊が壊滅し、ポートモレスビー作戦は失敗を迎えました。



主要参考資料
防衛庁防衛研修所戦史室(編) 『戦史叢書 14 南太平洋陸軍作戦(1)ポートモレスビー・ガ島初期作戦』 朝雲新聞社、1968年。
防衛庁防衛研修所戦史室(編) 『戦史叢書 28 南太平洋陸軍作戦(2)ガダルカナル・ブナ作戦』 朝雲新聞社、1969年。

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