一〇〇式輸送機

一〇〇式輸送機は、第二次世界大戦で活躍した大日本帝国陸軍の輸送機です。陸軍の主力軍用輸送機として活躍し、一方でMC-20の名称で民間用旅客機としても活躍しています。ここでは、一〇〇式輸送機とはそもそもどういう輸送機だったのかを紹介します。


原型となった九七式重爆

一〇〇式輸送機は、九七式輸送機の後継として開発されました。その原型となったのは九七式重爆撃機でした。九七式重爆撃機は、1937(昭和12)年に制式採用され、日中戦争などで活躍した陸軍の爆撃機です。この機体は、対ソ戦を想定し、大陸でソ連軍の前線基地に対して、反復攻撃を行うという目的で開発されました。そのため、航続距離や搭載能力に難があったものの、高速性能に優れているという特徴があります。
 九七式重爆撃機は一型で時速432km、二型で時速478kmでした。これは同じ時期に開発もしくはその後に開発された双発爆撃機と比較しても、かなりの高速でした。例えば、1939年に初飛行したソ連空軍のIl-4は最高速度が時速430km、1940年に初飛行したアメリカ陸軍航空軍のB-25の最終量産型で時速438kmでした。これらと比べても九七式重爆撃機は高速だったことが伺えます。
 一方で弱点だったのが、航続距離と搭載量です。九七式重爆撃機は対ソ戦を想定しており、大陸で使用されると考えられていました。そのため、長い航続距離を必要としていませんでした。加えて、陸軍基地から何度も反復攻撃を加えるため、搭載量よりも高速性能を優先していました。これらは太平洋戦線においては、不利に働きますが、日本が開発した爆撃機としては優秀な機体でした。


一〇〇式輸送機の開発

 1939(昭和14)年に陸軍は、97式重爆撃機を開発した三菱重工に対して、新型輸送機キ57の開発を指示しました。陸軍の指示は九七式重爆撃機の胴体部分を設計し直し、人員輸送にするというものです。先程も紹介したように、当時は九七式重爆撃機は汎用性に優れ、高性能だったため、これをそのまま輸送機として使おうということです。
 輸送機として開発するにあたって、主翼の位置を下げ、中翼から低翼としました。また、外翼内燃料タンク(インテグラルタンク)を設け、必要に応じて使用できるようにしました。爆撃機として考えると機体が被弾した場合、火災を発生させやすくなってしまうためにこれは装備されていませんでした。しかし、輸送機として使用するということになると、被弾の可能性よりも航続距離を長くする方を優先したという訳です。先程も紹介したように九七式重爆撃機は航続距離不足が欠点となっていたので、それを補うということでしょう。
 これらの改造が行われましたが、ほとんどは九七式重爆撃機をそのまま引き継いでいます。1940(昭和15)年、皇紀2600年に初飛行したキ57は、九七式重爆撃機の特性をそのまま引き継いでおり、飛行試験でも特に問題はありませんでした。そのため、そのまま制式採用されます。皇紀2600年に採用されたので、一〇〇式輸送機と命名されました。


一〇〇式輸送機の活躍

 一〇〇式輸送機は、制式採用され、陸軍の輸送機として活躍します。九七式重爆撃機の高速性能を引き継ぎ、当時陸海軍が使用していた国産、もしくはライセンス生産の輸送機としては機体性能も運用性も最良の機体でした。採用された当初は、アメリカ軍のC-47やドイツ軍のJu 52、海軍が使用していたDC-3(C-47)をライセンス生産した零式輸送機よりも高速でした。
 その一方で欠点だったのが搭載量でした。これは九七式重爆撃機の頃から問題視されていた部分ですが、一〇〇式輸送機は11名を運ぶことが出来ました。ドイツ軍のJu 52は17名、アメリカ軍のC-47では28名を運ぶことが可能だったので、他国の輸送機と比べて搭載能力で劣っていました。
 しかしながら、一〇〇式輸送機は様々な作戦で活躍をします。1942(昭和17)年2月のパレンバン空挺作戦ではロ式貨物輸送機と共に第1挺進団の落下傘降下を行います。落下傘部隊用に、座席をすべて木製ベンチとし、扉を内開きの大型のものに、指揮官用のぞき窓や客席両側窓に銃座の設置などの改修が施されました。同じ年の3月にはドイツ国防軍・イタリア王立軍・フィンランド軍・ルーマニア軍といった同盟軍の南方戦線視察にも使用されました。
 一〇〇式輸送機は、幾度となく改修が行われています。1942(昭和17)年には、エンジン換装や、主翼強化、そして貨物室の増設を行った一〇〇式輸送機二型が登場しました。その他にも、終戦までにさまざまな改修が施されています。
 一〇〇式輸送機は、MC-20という名称で民間機としても使用されました。大日本航空、満州航空、中華航空といった航空会社だけでなく、朝日新聞、読売新聞、大毎東日新聞などでも使用されました。
 一〇〇式輸送機は、1941(昭和16)年から1945(昭和20)年1月までの間に三菱重工で、一型101機、二型406機の合計507機が製造されました。これは軍事用と民間用を含めた数字です。戦前の国産輸送機・旅客機としては最多の数字です。
 第二次世界大戦が終結した後も、1945(昭和20)年8月19日から10月10日まで行われた終戦連絡事務処理のために日本機を用いて行われていた緑十字飛行にも用いられました。一〇〇式輸送機は、第二次世界大戦の日本軍を支える重要な輸送機だったと言えます。

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