最上型巡洋艦/軽巡から重巡、そして航空巡洋艦へ…

最上型巡洋艦は、日本海軍が建造した重巡洋艦で、1番艦「最上」、2番艦「三隈」、3番艦「鈴谷」、4番艦「熊野」の4隻が建造されました。日本海軍では、重巡の艦名には山岳名がつけられるのが慣例となっていましたが、最上型の各艦には本来は軽巡の艦名である河川名にちなんだ名前がつけられています。これは、最上型巡洋艦がもともと軽巡として建造され、その後重巡へと生まれ変わったためです。

最上型1番艦「最上」(1935年)

★軽巡から重巡へ生まれ変わった最上型

 もともと、巡洋艦に重巡・軽巡といった区別は存在していませんでした。重巡と軽巡の区別はロンドン海軍軍縮条約によって政治的に生まれたもので、艦艇の設計の違いではなく搭載している砲の口径によって分類されていました。15.5㎝より大きく最大20.3㎝までの砲を搭載する艦艇が重巡、15.5㎝以下の砲を搭載した艦艇が軽巡です。高雄型重巡を建造したことで、軍縮条約で割り当てられた重巡の建造枠を使い切ってしまった日本は、まだ余裕のあった軽巡の建造枠を利用して、重巡並みの性能をもつ艦を建造することを計画します。重巡並みの装甲をもった艦に、軽巡に分類される砲を搭載して軽巡洋艦として就役させ、戦争などが起きた際には大口径の砲に換装して重巡として再就役させる。最上型重巡はこうした考えのもとに生み出された、日本海軍唯一の軽巡として生まれた重巡となりました。なお、外国に対しては最後まで軽巡として通しています。最上型の次に造られた利根型重巡洋艦にも河川名がつけられており、こちらも最初は軽巡として就役させる予定だったのですが、建造時には日本が軍縮条約から離脱することが決まっていたため、最初から重巡として誕生しています。

アメリカ軍が使用していた最上型の識別図

★最上型重巡洋艦の性能

基準排水量11,200トン
全長200.3m
全幅20.6m
吃水6.15m
主機艦本式ギヤード・タービン4基4軸
主缶ロ号艦本式重油専焼缶10基(「鈴谷」「熊野」は8基)
出力152,000馬力
速力35ノット
航続距離14ノットで7,673浬
兵装50口径20.3㎝連装砲5基、40口径12.7㎝連装高角砲4基、25mm連装機銃4基、13mm連装機銃2基、61㎝三連装魚雷発射管4基
装甲水線100mm、弾薬庫140mm、甲板35~60mm、主砲塔25mm
乗員896名

★最上型重巡の特徴

 最上型は将来重巡になることが予定されていましたが、当初はあくまでも軽巡として建造され、設計に際しては重巡に対抗可能な軽巡という性能が要求されていました。そのため、最上型重巡は61㎝魚雷発射管を4基12門や優れた性能をもつ主砲射撃機構を搭載し、重巡にも対抗可能な戦闘力を有しています。さらに、水平装甲の傾斜角を増加させたり、弾火薬庫の装甲を厚くすることで、防御力にも優れた艦になりました。新規に設計された最上型重巡は、高雄型よりもコンパクトな造りの艦橋をもち、航空艤装の配置は以後の日本重巡にも踏襲される基本形になっています。乗員の住環境が二の次になりがちな日本重巡のなかでは、初めてハンモックではなく鉄製ベッドが導入されたように居住性も良好で乗員からも好評でした。
 建造途中に起きた友鶴事件によって復元性の改善のため設計変更が行われ、このときまだ進水前だった「鈴谷」と「熊野」ではさらに徹底的に改修が実施されたため「最上」「三隈」との相違点も多く、鈴谷型として別に分類されることもあります。さらに、この後発生した第四艦隊事件のために二度目の改修工事が行われ、就役した最上型は排水量が計画時より3000トンあまりオーバーしていました。このため、速力が37ノットから35ノットに低下するなど要求性能未達が起こる原因にもなりましたが、二度の性能改善工事を経て、ようやく最上型はまともな軍艦として就役することができたのです。当初は60口径15.5㎝三連装砲を搭載していましたが、無条約時代に入った後、1939年から40年にかけて三度目の性能改善工事が実施され、主砲を20.3㎝連装砲への換装を実施するとともに、九三式酸素魚雷の運用能力が付与され、日本海軍でトップクラスの兵装をもつ重巡へと生まれ変わりました。

最上型3番艦「鈴谷」(1935年)
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