艦上攻撃機「天山」

 艦上攻撃機天山は97式艦上攻撃機の後継機として開発された機体です。開戦当初から活躍していた97式を引き継ぐ攻撃機として期待されていました。しかし、エンジンの問題などなかなかスムーズに開発が進みませんでした。とはいえ、大戦中期から末期にかけて、日本海軍で活躍した機体であることは間違いありません。今回は天山とはどのような機体であったのかを紹介します。


97式艦上攻撃機の後継機として開発開始

 1939(昭和14)年12月、日本海軍は97式艦上攻撃機の後継機の開発を計画します。この機体は十四試艦上攻撃機という名称となり、中島飛行機に開発が指示されることになりました。
 しかし、新型艦上攻撃機の開発は容易ではありませんでした。海軍の要求は最高速度が時速463km以上、魚雷を装備した際の航続距離が3334㎞以上、発動機は譲または火星というものでした。97式艦上攻撃機の性能を超えるものを開発しなくてはなりませんでしたが、これがなかなか難しかったようです。
 開発開始当初に問題となったのが、発動機の選定でした。譲と火星の併記となっていますが、火星を推していたのが海軍でした。火星は既に後の一式陸上攻撃機となる十二試陸上攻撃機の試作機に搭載されており、試験も行われている段階でした。そのため、海軍は実績のある火星を積むことを求めていました。
 一方、中島飛行機が推していたのが、譲です。このエンジンは中島飛行機が開発を始めていた航空機用エンジンです。まだ開発中でしたが、中島飛行機が開発しているということで、改修作業が容易であり、また火星よりもさらに出力を向上できるとしていました。
 結局、中島飛行機の要求が受け入れられ、譲を搭載することに決定します。しかし、この譲がトラブルの原因となっていきました。

難航する開発

 十四試艦上攻撃機は1941(昭和16)年に初飛行し、1942(昭和17)年2月20日に試作一号機が完成しました。直ちに試験飛行が開始されましたが、なかなかうまくいきませんでした。
 原因の一つはエンジン、つまり譲でした。譲は大出力を実現することは出来ましたが、振動が激しく、故障が多いという問題がありました。しかも、安定性にも問題があり、滑走中に左に振れてしまいます。
 一方、機体にも問題がありました。雷撃試験では、高速での雷撃時にプロペラ後流の影響を受けてしまい、魚雷が海面で跳躍してしまうことが判明します。そして、離着艦訓練では着艦制動索の切断が多発します。これは着艦フックの形状不良が原因でした。
 このように十四試艦上攻撃機にはトラブルが起こっていました。トラブルが起こるたびに問題を解決していくことになります。しかし、日本海軍は全ての問題の解決を待っている余裕はありませんでした。既に戦局は悪化しており、97式艦上攻撃機に代わる機体を一刻も早く配備する必要があったのです。幸い、十四試艦上攻撃機はトラブルがありましたが、海軍の要求に応えた機体でした。そのため、海軍としては早く前線に送りたいという気持ちだったのでしょう。
 そのため、海軍は、実用試験の終了以前に基地航空隊用として、量産の開始を中島飛行機に指示しました。加えて、問題のあった譲に代わり、火星二五型に換装した機体の開発を指示しました。こうして、十四試艦上攻撃機は生産が開始されることになります。生産開始が1943(昭和18)年2月で、正式採用は同じ年の7月でした。

天山の活躍

 こうして生産が開始され、制式採用後は天山という名前を与えられました。天山というのは佐賀県にある山から取られました。
 天山は運用開始後、まずは南方方面へと投入されていきます。しかし、既に戦局は日本側に不利となっており、天山はなかなか成果を出すことが出来ませんでした。前線へと投入された機体もアメリカ軍の空襲などで失われていきます。たとえば、1944年2月11日にトラック島に到着した機体は、6日後のトラック大空襲で到着した機体のほとんどが破壊されてしまうという始末でした。
 1944年6月にはマリアナ沖海戦に参加します。この戦いは太平洋戦争の開戦においても、最大規模の空母同士のぶつかりあいでした。しかし、日本海軍はベテランパイロットを失っており、その補充もままならない状況でした。しかも、アメリカ海軍はVT信管とレーダーによって、艦隊防御網を強化していました。
 いくら天山が高性能とはいえ、訓練不足のパイロットが多数という状況ではその真価を発揮することは難しかったと言えます。結局、マリアナ沖海戦はアメリカの一方的な勝利に終わります。
 天山はその後も台湾沖航空戦やフィリピンにおける航空戦、沖縄戦の前哨戦となる戦いに投入されました。しかし、マリアナ沖海戦と同じような状況であり、なかなか戦果をあげることが出来ませんでした。
 日本海軍が敗退していく中で、母艦となる空母も失われ、基地航空隊の戦力もどんどん失われていきます。こうした中で、天山も少数による夜間や薄暮など迎撃されにくい方法での艦船攻撃や、特攻に使われたり、船団護衛や対潜哨戒に使われていきます。
 最終的には日本は敗戦を迎える訳ですが、天山は高性能な機体でしたが、投入されたのが遅すぎたために活躍できなかった機体と言えるでしょう。


主要参考資料
雑誌「丸」編集部『九七艦攻/天山 (ハンディ判図解・軍用機シリーズ)』光人社、2000年。

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1 コメント
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歴史解説やる / Akuromu
2022年9月15日 7:07 PM

エンジン名、「護」が「譲」に誤記載されてますね