バグラチオン作戦/ソ連軍作戦術の完成形

バグラチオン作戦は、1944年6月にソ連軍が東部戦線で実施した大規模な攻勢作戦です。120万を超えるソ連軍兵力が投入された史上最大規模の作戦となり、目標となったベラルーシのドイツ中央軍集団は回復不能なほどの大打撃を受けました。バグラチオン作戦はソ連軍の大勝利に終わり、戦線はポーランドまで押し戻され、ソ連軍はドイツ本土侵攻への道を切り拓くこととなりました。

バグラチオン作戦時、ベラルーシで放棄されたドイツ軍の車両

★テヘラン会談とバグラチオン作戦の決定

 1943年にイランのテヘランで開かれたテヘラン会談において、連合軍によるノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)の実施が決定され、これにあわせて東部戦線でもソ連軍が攻勢を行うことになりました。この頃のソ連軍は、東部戦線北部で、長期間にわたってドイツ軍の包囲下にあったレニングラードを解放しています。また、南部ではドイツ南方軍集団に大打撃を与えて、ウクライナから駆逐することに成功していました。それに対して、ドイツ中央軍集団はいまだ白ロシア(ベラルーシ)の大部分を占領しており、中央軍集団の戦線は「白ロシア・バルコニー」と呼ばれる巨大な突出部を形成していました。この中央軍集団を叩くことができれば、ソ連領のほぼすべてからドイツ軍を駆逐することができ、さらにドイツの首都ベルリンへの最短距離での進撃も可能になります。攻勢作戦の検討に入ったソ連軍最高司令部は、1944年4月、次の目標をベラルーシへと定めます。作戦名はスターリンの意向により、ナポレオンの侵攻に対する祖国戦争で活躍した、帝政ロシアの将軍ピョートル・バグラチオンの名をとって「バグラチオン作戦」と命名されました。

テヘラン会談に出席したスターリン、ルーズベルト、チャーチル

★白ロシアにおける独ソ両軍の戦力

 独ソ戦が3年目に突入した1944年、独ソ両軍の戦力には決定的な開きが生じていました。総兵力はソ連軍640万人に対してドイツ軍250万人、戦車の数ではソ連24000両に対してドイツ2400両と、ドイツ軍は明らかな劣勢に陥っていました。バグラチオン作戦においても、ソ連軍は4個正面軍125万4000人・火砲25000門・戦車/自走砲6000両・航空機7000機もの戦力を投入し、戦史上にも例のない空前の大攻勢作戦を実施しました。ノルマンディー上陸初日における連合軍とドイツ軍の兵力は合計しても20万ほどで、バグラチオン作戦は「史上最大の作戦」と呼ばれるノルマンディー上陸作戦を遥かに上回る規模の作戦だったことがわかります。これに対し、エルンスト・ブッシュ元帥が指揮するドイツ中央軍集団の戦力はソ連軍に対して圧倒的に劣勢で、兵員4個軍88万8000人に戦車/自走砲1000両・火砲3000門と、戦車/自走砲では6倍、火砲に至っては15倍もの差がありました。さらに、部隊の多くは歩兵師団で、ノルマンディー上陸作戦によって西部戦線に戦力をとられていたため航空機も不足していました。

西ヨーロッパにおける第二戦線となったノルマンディー上陸作戦

★ソ連の攻勢を予測できていなかったドイツ軍

 ドイツ軍ではソ連軍によるバグラチオン作戦の発動を全く予測できていませんでした。航空偵察が難しくなっていた上に、ソ連の欺瞞情報も加わり、中央軍集団の前面にソ連軍の大兵力が結集しつつあることを察知できていなかったのです。ヒトラーとドイツ軍司令部は、ソ連の次の攻勢はウクライナで行われるものと信じて南部に兵力を集め、中央軍集団の上級指揮官たちも次の攻撃目標が自分たちの戦区とは考えてもいませんでした。作戦に先立ち、ソ連軍が陽動として北のペトロザヴォーツクでフィンランド軍に対して攻勢を起こしたことも、白ロシアからドイツ軍の目を逸らすことにつながりました。ドイツ軍が予測していた中央軍集団正面のソ連軍は、兵員123万人・戦車/自走砲1100両・火砲5000門と、兵員こそ近い数だったものの、戦車と火砲に関してはかなり過少に見積もっていました。敵の兵力が本当にこれほどであれば、中央軍集団だけでも守りきれたかもしれませんが、実際にはソ連軍は6倍の戦車と5倍の火砲を有しており、ドイツ軍は予期しないタイミングで想定を遥かに上回る戦力をもった敵による攻撃を受けることになったのです。

バグラチオン作戦における戦線の推移
(Author:kl833x9
commons.wikimedia.org/wiki/File:Operation_bagration_overview_22_june_1944_to_29_august_1944.png)
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