ポリカルポフ I-16/ずんぐりむっくりの傑作機

★新しい世代の戦闘機

 1930年代初頭、各国では複葉機やパラソル翼機のような旧態依然とした戦闘機に代わる、全く新しい戦闘機が模索されていました。各国の航空機設計者が描いていたそのヴィジョンは片持ち式の低翼単葉、全金属で引き込み脚を備えた高速戦闘機というもので、アメリカのP-26ピーシューターやフランスのデヴォアティーヌD.500等の戦闘機が実用化され始めていました。しかしP-26は張線だらけで空力的な洗練も未熟、D.500は変わり映えの無い固定脚と垢抜けないスタイルで、どの国の飛行機も理想としていたソレとは程遠いものでした。そんな中、この開発レースで頭一つ抜けた結果を示したのはソビエト連邦でした。1933年12月30日に初飛行した「ポリカルポフI-16」は当時もっとも先進的な戦闘機だったからです。

P-26ピーシューター。 こちらも当時としては相当に先進的な機体だった。

★ポリカルポフI-16の誕生

 この全く新しい高速単葉戦闘機の開発が始まったのは1932年で、TsKB-39と呼ばれる設計局で行われました。このTsKB-39は収容所兼設計局というもので、作業員は囚人、設計者は政治犯という他国には類を見ないシステムでした。悪名高い大粛清により多くの罪のない航空機設計者が投獄の憂き目にあいましたが、有能な人材を強制収容所で腐らせるのは勿体ないというソ連共産党のいびつな思慮が生み出したものです。収容所設計局の設計者たちは成功すれば釈放に加えその後の生活が保障されますが、失敗すれば最悪処刑という恐ろしい環境で航空機を作っていました。まさに「飴と鞭」の究極形。ロシア製のアメは信じられないほど甘美で、ムチはとてつもなく厳しいものだったのです。そんな環境の中、TsKB-39の設計主任であったニコライ・N・ポリカルポフが設計したTsKB-12という機体が1933年12月30日、ヴァレリー・チカロフの手によって凍えるようなロシアの空を飛びました。

試作機のTsKB-12を写した写真

★ポリカルポフI-16の構造

 ポリカルポフI-16(以下I-16)最大の特徴は、そのずんぐりむっくりした胴体でしょう。これは当時流行った「胴体全長を胴体断面径の3倍にすると空気抵抗が最小になる」という理論が反映された結果でした。当時最速を誇ったアメリカのレース機、シービーモデルZもこの理論に基づいて設計されています。レース機の理論を当てはめて設計されたI-16は最高速度402キロ(Type5)から525キロ(Type24)を発揮するなど、当時としては文句なしの高速機として完成しました。
 しかしこの理論に基づいて設計された機体は安定性が非常に低くなるという欠点を抱えており、先述のジービー機も墜落事故でパイロットが死亡、殺人機と忌み嫌われることとなります。ただし、安定性が低いと言うのは悪いことばかりではありません。戦闘機の世界において安定性の低さは運動性能の高さとニア―イコールになります。語弊を恐れずに言えば、運動性能の良い戦闘機ほど「安定性の低い」飛行機と言えるでしょう。I-16の運動性は非常に高く、試作機の旋回時間は一周12~14秒と、低空旋回戦で無敵を誇った零戦二一型の16秒よりも優れた数値を叩き出しました。その代償として操縦性、低速安定性は最悪。「飛行テストを行ったイギリス人パイロットが真っ青になってすぐ着陸した」、「テストパイロットはこの戦闘機を本物の熟練パイロット以外に操縦させるべきではないと評した」などエピソードに事欠かない機体です。この機体のもう一つの特徴は世界で初めて引き込み脚を採用した実戦機であるという点です。コックピット右下にクランクがあり、これでワイヤーを巻き取ることによって引き込むという原始的ながら信頼性の高い機構でした。その代わりクランクは重く、28回~30回もまわす必要があるなどパイロットに負担を強いるものだったそうです。

I-16の三面図
(Kaboldy File:Polikarpov_I-16.svg)

★I-16、赤軍の主力戦闘機へ

 先述の高性能と、木造モノコックという生産に適した構造を気に入ったソ連空軍は1934年3月22日にI-16を正式採用しました。ソ連のアルミ生産量は列強の中でも下から数えた方が早く、ステンレス鋼や鉄で航空機を製作する実験なども行っていました。あえて全金属製に手を出さなかったことが、結果としてI-16の採用をプッシュしたのです。
 I-16の初実戦となったのは1936年に勃発したスペイン内戦でした。276機のI-16 が投入され、フランコ空軍の(そしてコンドル軍団の)ハインケルHe51やアラドAr68などの複葉機を圧倒し、これに危機感を感じたドイツ軍が最新鋭のBf-109B型を投入するまで航空戦で優位に立っていました。
 ヨーロッパの西端で戦ったI-16の次なる戦場は極東、ノモンハン上空でした。当初はI-15やI-153などの複葉機と混同で運用され、乗員の低練度も相まって日本陸軍航空隊の九七式戦闘機相手に大損害を出し、5月下旬には地上軍のエアカバーが消失するといった事態まで追い詰められてしまいます。しかし、20ミリ機関砲及び防弾装備の追加されたType28の投入と、複葉機を低空で囮にし、それに食いついた日本軍機に中高度から一撃離脱を仕掛けるという囮作戦の確立により第二次ノモンハン事件での戦果損害比はほぼドローに持ち込むなどの善戦をみせました。
 独ソ戦開始時、すなわち1941年6月のバルバロッサ作戦開始時にはすでに旧式化していたI-16ですが、ソ連空軍実戦機4226機の内の1635機を占めるなど、数的にはまだまだ戦力と言えるものでした。後継機のYak-1やLaGG-3は工場の疎開や奇襲による混乱で数が揃わず、次々と飛来し猛撃を加えるルフトヴァッフェ第2航空艦隊に対して対抗できる戦闘機はI-16だけだったのです。I-16の敵はまたもメッサーシュミットでしたが、スペインで相まみえたB型より遥かに高性能なE型相手では勝ち目はありません。さらに乗員は練度不足、補給は届かず、そもそも多くの機体が地上撃破されるなどの完敗を喫しました。1943年中期までにほぼ全てのI-16が後継機に置き換えられ、ようやく表舞台から降りることとなります。しかし爆弾やロケット弾を搭載して対地攻撃に駆り出されるなど、結局ドイツ降伏まで最前線で戦い続けました。低空での運動性能が良く、機体規模の割に強力な爆装が施された戦闘爆撃機型の本機をドイツ兵は「ラタ」(Rata:ハツカネズミの意。スペイン内戦の頃からこの綽名がついていた)と呼んで恐れたと言います。完全に陳腐化した後も、老兵最後のご奉公と言わんばかりに活躍したのでした。

編隊飛行を行うI-16

★まとめ

 日本におけるI-16、さらに言えばソ連空軍そのものの評価はあまり高くありません。実力にそぐわぬ過小評価と言った方が適切でしょうか。しかし、ソ連が当時一流の工業国であり、流体力学や航空理論などの技術で世界上位に位置していたというのは事実です。1930年代における戦闘機開発競争で頭一つ抜けた完成度を示したポリカルポフI-16は、その事実を自身の高性能をもって証明した航空機であると言えるでしょう。

(Elchuso File:Polikarpov_I-16_with_spanish_republican_markings.jpg)

≪参考文献≫
藤森篤『現存欧州大戦機アーカイブ』(枻出版社、2012)
古峰文三『航空戦史』(イカロス出版、2020)
『世界の傑作機No133 ポリカルポフI-16』(文林堂、2009)
https://web.archive.org/web/20080305093457/http://i16fighter.narod.ru/index_e.htm
http://i16fighter.aviaskins.com/

購読する
通知する
guest

CAPTCHA


0 コメントリスト
インラインフィードバック
コメントをすべて表示