NATOの対ソ連核戦略

 北大西洋条約機構(NATO)は1949年に設立され、以後、ソ連と対峙し、封じ込めることを目的としていました。折しも同年にソ連は核実験に成功し、NATOはソ連の核への対処も余儀なくされていきます。ここでは、NATOがソ連に対して如何なる戦略で挑んでいったのかを紹介します。


冷戦初期の大量報復戦略

 1949年4月に北大西洋条約が調印され、NATOが発足します。同じ年の9月にソ連は核実験に成功し、1952年には水爆実験に成功します。しかし、当初、ソ連は、核兵器を保有していたものの、アメリカを直接攻撃できる運搬手段を持っていませんでした。
 こうした中で、1954年1月にアメリカのアイゼンハワー政権が策定したのが、大量報復戦略です。これはソ連による侵略があった場合に、ソ連の大都市に対して、即時に核兵器での報復を行うことにより、ソ連の行動を抑止しようというものです。
 当時は、アメリカは核兵器で優位を保っていましたが、ソ連は戦車などの通常戦力で優位を保っていました。そこでアメリカは核兵器を使うと威嚇することによって、ソ連の行動を抑えようとしたのです。
 しかし、1950年代中ごろに入ると、アメリカの核の優位が脅かされます。1955年以降、ソ連はアメリカを直接核攻撃可能なTu-16やTu-95といった爆撃機の配備を始めます。そして、1957年10月にソ連は人工衛星スプートニクを打ち上げます。ソ連が核兵器の運搬手段を持つようになりました。
 一方で、ヨーロッパ側からもアメリカの核戦略への懸念が示されます。ヨーロッパでソ連の通常戦力による戦争が生じた場合、果たしてアメリカは全面核戦争の危険を冒しても、介入してくるのだろうかという懸念です。
 そこで1957年12月NATOは受け入れ国の同意を前提に、アメリカの核弾頭、さらには中距離弾道ミサイル(IRBM)のヨーロッパへの配備に合意しました。これがニュークリア。シェアリングと呼ばれるものです。ニュークリア・シェアリングは西ドイツなど、攻撃に晒される恐れが高い場所に配備し、戦争となった場合にアメリカの同意を得て、使用するというものです。しかし、これでも、ヨーロッパの件は払しょくできませんでした。


柔軟反応戦略の時代

 核戦略に修正が迫られている中、1962 年2月にケネディ政権の国防長官であるマクナマラは、柔軟反応戦略の採用を発表します。柔軟反応戦略とは、通常戦力に対しては通常戦力で対応し、対応が難しい場合には、状況に応じて核兵器を使用していくというものです。
 先程も紹介したように、ソ連の核戦力が増強されている状況では大量報復戦略では米ソの核戦争に発展する可能性が高くなっていました。ヨーロッパだけでなく、世界各地での紛争が直ちに米ソの全面核戦争に発展する恐れがあったのです。
 柔軟反応戦略が採用されたものの、問題は残されていました。ヨーロッパにおける通常戦力の強化は進まなかったためです。各国の経済的な事情もあり、通常戦力の強化は直ぐに進むものではありませんでした。
 マクナマラが柔軟反応政略の採用を発表してから5年後の1967年12月にようやくNATOは、柔軟反応戦略を採択しました。5年に渡る協議を経ての採択でした。しかし、アメリカとヨーロッパの懸念は解消されないまま残されることになります。


INFの配備

 柔軟反応戦略が採択された後、米ソ間はデタントと呼ばれる緊張緩和の動きが加速します。しかし、1976年以降ソ連が中距離核ミサイルSS-20の配備を始めるとデタントムードは急速に萎んでいくことになりました。
 SS-20は1976年から1988年にソビエト連邦が開発した核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイルです。射程約5000㎞で、アメリカには届きませんが、ウラル山脈より東側からもヨーロッパ全域を攻撃できるミサイルです。
 NATOには、この時期、このような射程のミサイルは配備されていませんでした。ここで、再びアメリカとヨーロッパの論争へと発展します。ソ連が攻撃を仕掛けた場合、ヨーロッパ側だけがSS-20による攻撃を受け、アメリカは反撃しないのではないかというものです。
 これに対して、NATO は1979年12月に二重決定を採択します。これはヨーロッパに中距離核ミサイルを配備する一方で、ソ連とは軍備管理の交渉を進めるというものです。
 ソ連は1979年に開始したアフガニスタン侵攻から国力をどんどん疲弊させていきます。こうした中で、NATOはヨーロッパへの中距離核戦力(INF)配備を決定し、ソ連との軍拡競争へと突入します。
 ソ連は徐々にこの負担に耐え切れなくなりました。1981年11月にソ連との軍備管理交渉が開始されましたが、1987年12月に米ソ間でINF全廃条約が締結され、射程 500~5500 キロメートルの地上発射型の INF を全廃することになりました。
 こうした中で、冷戦自体にも終止符が打たれることになります。1989年に東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊し、翌年には東西ドイツが統一されます。そして、東欧諸国が次々と民主化する中、ソ連邦を構成した国々も離脱していきます。そして、1992年にはソ連自体が崩壊に至ります。
 こうして冷戦は終結しましたが、その渦中にあって、NATO諸国は互いに不信を抱えながら、冷戦を勝ち抜いていったと言えます。




主要参考文献
山下愛仁「スナイダーの抑止理論と冷戦期 NATO の抑止戦略」『エアパワー研究』第6号(2020年1月)。

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