シュナイダー・トロフィーとレーサーたち

★エンジニアたちの登竜門

 スーパーマリン・スピットファイア、マッキC.202フォルゴレ、ノースアメリカン・P51ムスタング。いずれも第二次世界大戦屈指の傑作機と名高い戦闘機たちです。これらの機体には液冷エンジンを装備していること以外にもある共通点がありました。それは設計者が「シュナイダー・トロフィー・エアレース」の参加者だということです。更なる高出力エンジンの開発、複葉機から単葉機へ、高翼配置から低翼配置へと航空機の高速化に大きな役割を果たしたのは、フランスのある飛行機狂が主催したエアレースだったのです。

シュナイダー・トロフィーで腕を振るったマリオ・カストルディの傑作MC202

★ある飛行機狂の夢

 ジャック・P・シュナイダーは1979年7月25日、フランスの裕福な工場主の家に生まれました。彼は幼いころからスピードマシンに魅せられ、自転車、モーターボート、飛行船とさらなる速さ、さらなる高度を求めて精力的に活動していました。1908年、ライト兄弟がフランスに飛行機を持ち込むと彼はすぐに飛行機の虜になり、1911年には早くもパイロットライセンスを取得、飛行に明け暮れました。しかし、当時の飛行機技術は黎明期にあり、簡単に墜落してしまいます。シュナイダー自身も墜落事故で重傷を負い、彼の飛行機への道は閉ざされてしまいました。
 しかし彼は空への夢を諦めきれず、1912年12月、私財をなげうって水上機のレース大会を主催します。そのレースの名は「シュナイダー・トロフィー」、彼が水上機に拘った理由はそのスピードにありました。離着陸距離を度外視できる水上機なら翼面荷重をいくらでも高くすることができたため、1920年代頃は陸上機より水上機の方が高速だったのです。

モーターボートを楽しむジャック・シュナイダー
(Gabrielguz77,commons.wikimedia.org/wiki/File:Jacques_Schneider.jpg)

★ブロンズの有翼人

 1913年、モナコで第一回目のシュナイダー・トロフィーが実施されました。コースは190マイル(300キロ)の周回コースで、参加者は4人、全員がフランス人という非常にローカルな大会でした。優勝者に授与されたトロフィーはブロンズ製で、風の神ゼファーと海の神ポセイドンの祝福を受け飛び立つ有翼人をかたどったものです。これは“高速水上機は空をも、海をも征する”というシュナイダーの想いを表していました。第一回ではモーリス・プレヴォストが優勝しましたが、第二回大会ではイギリス人のハワード・ピクストンがトロフィーをかっさらい、第一次世界大戦の終戦に伴い再開された第三回大会ではイタリアが優勝を勝ち取りました。しばらくはフランス、イギリス、イタリアの三か国が強豪としてトロフィーを奪い合い、しのぎを削っていましたが1923年、強力なライバルが現れます。世界最高の経済大国にして飛行機の母国であるアメリカです。1923年に行われた第7回大会ではデヴィット・リッテンハウスが駆るカーチス機が大差をつけて優勝し、第8回はアメリカ機が首位を丸ごと独占したため、試合そのものが無効になるというトンデモ成績を残しました。その後、イタリア、イギリス、フランスも負けじと新型機を投入し、最終レースとなった第十二回での優勝機スーパ―マリンS.6Bが叩き出した記録は時速548キロ。これは第一回大会の優勝記録時速74キロの約7倍に達し、1931年当時の英軍新鋭機ホーカー・フューリーの最高速度が時速333キロであったことを考えればオーパーツじみた数字でした。

ロンドン博物館に保管されているトロフィー
(Morio,commons.wikimedia.org/wiki/File:Schneider_Trophy_side1_Science_Museum_London.jpg)

★スピードは空を征したか?

 冒頭に述べたように、このシュナイダー・トロフィーには著名なエンジニアたちが多く参加していました。このレースで初めて時速500キロの壁を突破したスーパーマリンS.6シリーズを手掛けたレジナルド・ジョセフ・ミッチェルは1934年、最高の大戦機の一機であるスピットファイアを設計し、ドイツ空軍から祖国を守り抜きました。ミッチェルは末期ガンに侵されながらもスピットファイアを完成させ、救国戦闘機の活躍を見ることなく1937年に死去しました。イギリスのライバルであったイタリアチームの主任設計者マリオ・カストルディはエンジンの低性能に悩まされながらもMC.200を設計し、P-51マスタングにも劣らないと称されたMC.202を完成させるなどイタリア空軍の大黒柱として活躍しました。アメリカチームには後にP-51を設計に携わるハワード・キンベルがおり、空母から発艦し日本本土初空襲を行ったジミー・ドゥーリットルがパイロットとして参加しています。シュナイダー・トロフィーで培われた高速機の技術は約10年後の第二次世界大戦で大きな役割を果たしたのでした。

ミッチェルの設計したS.6B水上機

★戦後のシュナイダー・トロフィー

 1981年、レース50周年を祝してイギリスでシュナイダー・トロフィーが復活を果たしました。当初の支援者は王立飛行機クラブのみでしたが、後に米企業デジタル・イクイップメント社がスポンサーに参加し、1987年にはBBCが大々的に報道し、一般の人々にも広く知られるところとなりました。参加機体の平均速度は120キロ程度と非常にミニマムな軽飛行機レースというカタチではありますが、ほぼ毎年開催され、キングスカップレースと並んでイギリスの二大飛行機イベントとして人気を集めています。リバイバルレースのトロフィーには精巧なレプリカが使用されており、オリジナルのトロフィーは王立博物館の飛行館に最後の優勝機であるスーパーマリンS.6Bと共に展示されています。速さを求めた男たちに捧げるモニュメントとして、当時の飛行機魂を伝えているのです。

2019年大会で優勝を勝ち取ったRV-7の同型機

≪参考文献≫
欧州大戦機アーカイブ      藤森篤(2012)
スピットファイア戦闘機物語   大内健二(2019)
https://www.hydroretro.net/indexen.html
https://speedbirds.blogspot.com/
http://www.letletlet-warplanes.com/2008/06/14/the-schneider-cup-racers/
https://web.archive.org/web/20090223134831/http://www.raf.mod.uk/history_old/schneider1.html

購読する
通知する
guest

CAPTCHA


0 コメントリスト
インラインフィードバック
コメントをすべて表示