遣独潜水艦作戦-同盟国を結んだ深海からの使者

 第二次世界大戦中、ドイツと日本は同盟国であるにもかかわらず、遠く離れており、互いの連携が出来ない状況でした。その両国を細々とつないだのが潜水艦による連絡でした。数度にわたって行われた作戦で戦略物資や新兵器やその部品、図面、そして士官や民間技術者といった人材も輸送されました。今回は遣独潜水艦作戦を紹介します。


途絶してしまった同盟国間連絡

 1936年の日独防共協定の締結、そして日独伊三国同盟の締結により、日独は同盟関係にありました。第二次世界大戦におけるアメリカとイギリスの関係に比べて、日独関係は連携がなされていないと評されることが多いです。元々、日独伊三国同盟については、ソ連を加え、四国同盟にするという構想もありました。
 実際、日独間は遠く隔てられていますが、第二次世界大戦の勃発により、東欧諸国がドイツの手に落ちると、日独の間にはソ連があるのみでした。四国同盟構想は頓挫しましたが、日独間の連絡はシベリア鉄道経由で行われていました。それを打ち切ったのが独ソ戦の開始です。
 1941年6月の独ソ戦の開始によって、シベリア鉄道を介した日独連絡は途絶しました。その後は、海上交通路を使って、連絡が行われます。しかし、この海上交通路も12月の英米との開戦によって、連絡は困難になりました。
 第二次世界大戦を遂行中のドイツにとっては、生ゴムや錫などの原材料の確保が重要でした。これらの物資を産出するのは日本の占領下にあった東南アジアでした。ドイツは柳船と呼ばれる海上封鎖突破船を派遣し、細々と物資輸送を行います。柳船は日本が求めていた精密機械などの軍需品をドイツから運び、日本からは酸素魚雷や船舶用のエンジンと言った軍用品、そして生ゴムや錫、タングステンといったアジア原産の原材料をドイツに運びます。
 柳船の活動の障害となったのが、イギリス海軍や南アフリカなどの英連邦諸国です。戦争中ということもあり、イギリスの勢力下にあるスエズ運河を通航することは出来ません。そのため、柳船はアフリカ大陸を大きく迂回して、その後インド洋に入ることになります。柳船はイギリス海軍や南アフリカ連邦軍の哨戒網に引っかからないようにする必要がありました。しかし、徐々に柳船の活動は妨害に遭うことが多くなりました。こうした中で考え出されたのが潜水艦による作戦でした。

潜水艦による日独連絡

 日独間の潜水艦連絡は、日本を出発した後、ペナンや当時昭南と呼ばれていたシンガポール、またはジャワ島のジャカルタに到着した後、マラッカ海峡へと至ります。マラッカ海峡を抜け、インド洋を横断し、マダガスカル沖に到達します。その後、喜望峰を回り、大西洋を抜けて、ドイツ占領下のフランス大西洋岸にあるUボート基地へと至るというルートです。
 日本の英米開戦の後、日本軍は進撃を重ね、東南アジアとインド洋における制海権は日本軍にありました。一方、大西洋においては、イギリス海軍が対潜哨戒網を敷いている状況でした。さらに1943年以降は、大西洋からヨーロッパに至る制海権も連合軍に奪われ、日本が制海権を握っていたインド洋以東の海域でも連合軍の通商破壊戦が活発になっていました。
 こうした困難の中で、日本からの潜水艦派遣が行われることになります。ドイツ側は柳船で入手していた戦略物資の輸送を望んでいました。それに加えて、酸素魚雷や水上飛行艇など、ドイツにない技術情報を得ることを希望しています。一方、日本側はウルツブルク・レーダー、ジェットエンジン、ロケットエンジン、暗号機といった技術を入手したいと考えていました。こうして、遣独潜水艦作戦が決行されることになりました。

遣独潜水艦作戦の遂行

 遣独作戦は1942年から5回行われました。このうち、完全に成功したのは第二回のみです。第2回では、伊号第八潜水艦が、ドイツが日本に無償譲渡するUボートをドイツから日本に回航する要員60名を乗せ、出発します。1943年8月31日にフランスのブレスト港に入港しました。回航要員のほか、酸素魚雷、潜水艦自動牽吊装置の図面、錫、天然ゴムなどが提供されました。
 代わりにダイムラー・ベンツ高速艇発動機MB501と取扱い装置、設計図面、メトックス受信機、エリコン20ミリ機銃120挺、エニグマ暗号機169台を積み込みます。加えて、後甲板にドイツから譲渡された20ミリ4連装対空機銃を装備しました。ブレスト港を10月5日出航し、暴風に見舞われながら、12月にシンガポールに到着します。そして、12月21日に呉に無事到着しました。
 第1回は往路のみ成功した事例です。第1回は伊号第三十潜水艦によって行われました。1942年4月11日にクレを出稿します。この時積み込まれていたのは、零式水上偵察機、九一式航空魚雷の設計図、八九式空気魚雷14本、零式水上偵察機、シェラック660キロ、雲母840キロでした。途中、喜望峰付近の吠える40度と呼ばれる難所を通過した際に、エンジン故障が発生します。そして、南アフリカ空軍の偵察機に発見されたり、敵機の攻撃を受けたりしますが、8月6日にフランスのロリアンに到着しました。
 ロリアンではウルツブルクレーダーなどの電子兵器を4基、エニグマ暗号機50台、魚雷発射誘導装置1基、魚雷用爆薬50kg、輸送品67箱を積み込みます。8月22日にロリアンを出発し、10月8日ペナンに到着、10月13日にシンガポールへと到着します。しかし、シンガポール出港直後に触雷し、沈没してしまいました。これは、安全な航路が変更されていたにもかかわらず、遣独作戦中に暗号が変更されたために伝わらなかったことが原因です。20ミリ機銃弾と魚雷発射誘導装置、そしてウルツブルク射撃管制レーダーの設計図等の回収に成功しましたが、ウルツブルク射撃管制レーダーなどは破損してしまいました。
 第3回から第5回までは途中で撃沈されてしまいました。この中で特筆すべきなのが第4回です。伊号第二十九潜水艦で実施されました。1943年12月17日にシンガポールを出港し、1944年3月11日にフランスのロリアンに入港します。ロリアンでは、Me163型ロケット戦闘機及びMe262型ジェット戦闘機に関する資料が積まれました。復路では、7月14日にシンガポールに入港した後、7月26日にバシー海峡でアメリカ軍の潜水艦に撃沈されました。途中のシンガポールで輸送機に乗り換えた技術者が持ち出した一部の資料を除いてロケット戦闘機やジェット戦闘機の資料は失われてしまいました。




主要参考資料
吉村昭『深海の使者』文藝春秋、1974年。
伊呂波会編『伊号潜水艦訪欧記 ヨーロッパへの苦難の航海』光人社、2006年。

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